ノートを綺麗にとれない自分の話

特に意味のない身の上話をする。

自分はフルタイムで働いているわけでもなく、多くの院生のように研究室のコアタイムがあるわけでもない。長期的なゼミ報告や学位論文執筆以外に決まった目標もなく、漫然と生きようと思えばできてしまう。

身の回りには刺激が多く、困ったことに自分はしょーもない誘惑に弱い。

少しSNSを見てみよう、気になった本を読み散らかそう、少し気の利いたものが食べたい。大抵は後々の糧になるわけでもなく、短期的な憂さ晴らしに過ぎない。

こういう環境と性向のもとで計画的に研究するというのは難しい、と私には感じられる(これはつとめて主観的問題だ)。研究そのものは好きだから、運が良ければ憂さ晴らしの範囲として史料を読んだり、論文を読んだり、メモを取ったりできることもある。そういう憂さ晴らしの蓄積とたまにやってくる締切を前にした「火事場の馬鹿力」でなんとかなっているといえば、なんとかなっている。

これが研究ならば、好きな分どうにかなるといえばなる。しかし、継続性がものをいう「勉強」(あるいは「勉強」よりの研究)になると話は大きく変わってくる。例えば、中国語の勉強や史料の体系的読解、古典的著作を読む、そういうことがすごく苦手だ。まあ、最初は面白そう、という好奇心で進められるが、あるところで飽きる。三日坊主をすぎれば継続できる、というが、自分の場合、だいたい2週間。頑張ったやつは半年くらい。年始に買った手帳は3月までの予定しか書かれない(今年の手帳は今の所保っている)。

困っているといえば困っているのだろう。

いつか然るべき所に相談しに行こう、とは思っているのだけど、どうにも成功しない。予約のための電話は苦手だから、なんとなく先延ばしにしてしまうし、そういう相談をしようと思うときに限って勉強にも集中できる。そうしてきてついに2年ほど経ち、保健管理センターは有料化されてしまった。

それに加えて困ったことに、全体としてはなんとかなっているような気がしているのである。実生活上でも意図的に履修を辞めた科目以外には単位を落としたこともない(お慈悲を受けた授業はある)。特に遅刻ばかりしてしまうというわけでもない。手続きに失敗してばかりということもない。精神的な面でも飽きっぽいのか、鬱々とした感情や危機感すら持続しない。

なんというか自分のことなのにすごく他人事なのだ。他人事だから自分のことに無関心だ、というわけでもなく、言うなればアイデンティティに持続性がない。過去の決断は今の自分にとっては他人による決断であるけど、それはそうとして自分の決断として従容として受け入れる。まさに「鶏となって時を告げる」ような状態である。

それが嫌だ、という話でもない。ただ、今の自分が置かれている位置にふさわしい生き方を鑑みると、どうも困ったことのようである。困ったものだから、ブログを書いたり、勉強会を開いたり、○つくばに出てみたりして、短期的な目標を設定して、対症療法的に蓄積を作ろうとしている。しかし、あがいてみたところで、本質的にそれじゃあどうにもならないのだ、ということも経験される。これは畢竟、生き方の問題であり、人間の器質的な部分にかかる問題であるとも言える。自分はどうがんばっても、あの教室にいた「ノートを綺麗にとれる子」にはなれないのである。

明日も明後日も、一ヶ月後も、5年後も自分が自分であるという継続した意識をもたねければ、院生として研究を続けることは難しいかもしれない。

何を困っているのか、はっきり言語化したかったので、このように書いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?