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メンタルジャーニー文学 再開

再開記念号は、別連載マガジン万事意見書とのコラボ記事となりました。(もちろん後付ですがね)

2021.04.29

なんやかんやでまたしばらくの時間が過ぎたのだけど、相変わらず記憶は曖昧で、うまくやれてるつもりでいたついこの前までのものと思われる感覚が、いつの間にかやや下降傾向にあるように思えるのだが、分岐点らしい時期や事柄の心当たりがない。

長く精神不調の時期を過ごし、今から約三年前、どうにか社会人復帰を果たしてからのこれまでというと、不自然と言えるくらいに万事がうまくいっていた。確かに人生のうちで随分タフな時期を経験し、難行苦行の果てに多くの気づきを得たことは確かなこととしても、それにしてもこうまでも障害らしきものが見当たらないのはどこか気持ちが悪い。そうこう過ごしてきたわけだが、ふと気づくと諸問題に囲まれ日々の業務に追われ、どうにも自由の効かない状況下に翻弄されていたというわけだ。

ひとまず把握できていることと言えば、
風向を変えることになった要因にあたるもの、
そいつを把握できていないということだ。
なんらかのセクションのはじまりに違いない。

怒るということ

心理学者で日本でも話題の多いアドラーさんによれば、怒るという現象は、本人が怒りたいから怒るのだと。今更その話を持ち出すにはシンプルな理由がある。私はこの頃怒っているからだ。約三年ぶりの怒りだ。久々の感覚を味わいながらふと賢人の説に思考を凝らす、なるほどおもしろい、確かに今の私は怒り、同時に怒りたがっている。

かのガンジさんはそれはもう美しすぎるほどの言葉と記憶を後世につないだ。その根底にあるもの -ものの見方や解釈の多様性は承知しているが- それは時に怒りではないか。

ブッダさんは地位を置いて町を出た。荷物を降ろすというメンタルジャーニーの性質は先天的に授かったものによるところが多い。この場合怒りではないかもしれないが、その根底にあるものは負の気分をお帯びた、いわば不幸ということではないか。
旅に荷物は付き物で、始まりはいつも重荷。来る異文化と交流や刺激的なスパイスへの期待が重量を運ぶ。エネルギーの源は煩悩とも言える。煩悩は動物の動を支える栄養だ。

バランス

キリスト教の聖人ボナヴェントラさんは、行き過ぎなほど熱心で厳格なコニュニティを見て言った。「何事も程よく用いるのが良い」。これは決して信仰を利用したビジネスやプロパガンダなどを肯定する意味合いが含まれない領域の話であろう。多様性の上に成り立たせねばならない宇宙の性質側から見れば、バランスこそが存続の為の唯一要素と言える。全体という個体を維持しようとする前提の話ではあるが、聖人の言葉の意図は、言い換えればアンバランスへの指摘だろう。

無駄ということ

無駄さんはいつの時もサピエンスさん達の概念の仕業で大方悪性のものとして扱われる。ずいぶん古い時代からそれは変わらない。自然界においても同じ流れは観察するだけでも見て取れる。しかし、人類のそれと自然界のそれとでは大きな違いがある。それに気づくには概念というものへの少し踏み込んだ考察が必要になると思われる。

人類の概念の象徴ともいえる,言葉,で表現するなら、宇宙とは無駄そのものではないだろうか。「必要なものがあるじゃないか、あれもこれも...」と。これが無駄さんを見誤る最もメジャーで初歩的なものではないかと思う。
必要とは何か。もう少し丁寧に言うと、人類が生きる概念の世界で、絶対的に必要なもの何か。私の見解ではそれは前提である。前提とは元を辿れば概念の始まりの基準点にたどり着くに違いない。それが何かは今の所知るすべはないが。

話を戻すと、自然界と人類の間にある違いは解釈の有無だ。人類は無駄なものに、ポジティブやらネガティブやらなんであれ、解釈を持とうとする。対して自然界には解釈がない。言うまでもなく自然界には概念そのものがない。あるのは実在と性質だけだ。

リアリティ

言葉というものは事実無根要素や誤解を招きやすい。リアリティと聞くと人はそれぞれに独自のイメージ世界を膨らます。当然ながらそれは書き手側も同じこと。自身の固有のイメージで言葉をチョイスする。

※念の為表明しておくが、私は概念、意識によって形成される人類社会が大好きだ。

リアリティという言葉でここで私が伝えたい意味は、実際に存在しているということ。ちゃんとここにあるということ。

地球上も含めた宇宙に実際にあるもの、それは実態だけだ。あるものはあり、ないものはない。それで終わり。同列で人類と比較してみると、人類にはそれに加えて解釈がある。もう少し正確に言うと、実態に対して、意味や解釈を持った。そしていつしか、意味や解釈といったものがあるということを前提に、概念を構築し積み重ね、推測に過ぎない前提を疑わなくなった。

人類に都合が悪いもの→無駄なもの→排除すべきもの→自らの英知で排除できる→効率よくやりたい→非効率は無駄だ→無駄も楽しければ無駄じゃない→楽しくない人生は無駄だ

こういう範囲でのループの中に(概念世界の中に)生きるのだけど、人間間でのこれら概念遊びや、時に芸術やらなんやらは中毒なほど楽しい。ただそういうものたちの隙間に、大切な判断を誤るリスクも含んでいることは、知っておいたほうがいいと思う。

地球に優しく

地球さんは困ってますかねえ、と私は思う。近頃はバカバカしいキャッチフレーズが美談のようにはびこっている。地球に優しく。これは人類の愚かさを象徴する言葉だと言える。宇宙や自然は特に何を思うこともなく、ただただあるべくしてそこにあるだけだ。困っているのは地球ではない。人類の方だ。それでこのキャッチフレーズ。人類が宇宙空間で存続するためにバランスをうまく取ることは必須条件である。そのバランスがうまく取れない根本原因は、皮肉にも優れた英知があるゆえの勘違いである。英知でもってエゴを正当化し、英知でもって存続バランスを失う。複雑で建設的な思考ができる、宇宙屈指の勘違い生命体。この流れはおそらく止められない。それくらい種が広範囲で弱体化してしまったかもしれない。

そして、この言葉で一番むなしいのは、この先人類がどんな未来を迎えようとも宇宙の側はというと、

あったものがなくなった、
ただそれだけだということ。
それ以外の意味も解釈もそこにはない。

随分長期的に話がそれた。
一旦休憩。

最後に念の為もう一回表明しておくと、私は愚かな現代人類社会の一員でいられて幸せです。

つづく

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