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地方鉄道とロードサイド店舗集積にまつわる思い出ーmatinoteエッセイ・お題「ロードサイド」:その1

matinote ではメインメンバーを中心にエッセイ企画を始めました。今月のお題は「ロードサイド」。今回の担当は鳴海です。

 まだ高校生の時のこと、とある地方鉄道について調べる機会があった。その頃、廃線寸前でなんとか路線維持の方向で回避しており、これからどうなるんだろうという思いで調べていた。
 そこでふと浮かんだのが「鉄道をわざわざ使ってまでして、まちに買い物に出るか?」という疑問だった。

 この地方鉄道の沿線には立派な幹線道路が走り、スーパー・書店・ホームセンターなどの様々な業態がロードサイドに集積している場所がある。そこに行けば、鉄道の起点にあたる市街地よりも店があるのだ。このとき、家が買い物でクルマ利用メインのだった私は「わざわざ鉄道に乗る理由がない」と思った。
 このとき我が家が鉄道を使うときは、父と私の通勤・通学利用とクルマで行きにくい大きな市街地への買い物だった。そうすると、クルマを定期外で利用する機会なんてそんなにない。しかも、市街地にいろんなモノがあればいいが、そこの市街地は空洞化している。そこで「本当に鉄道は必要?通勤・通学時にバス専用道を走らせて定時だけ確保できたらよいのでは?」と意見に盛り込んだ。もちろん、鉄道研究の場では相当な反発意見をいただいた。当時の私はそれに反発心しか覚えなかった。

 だが、この時想像できなかったことが3つある。
 1つ目は通勤ですらクルマやバイクを利用することがほとんどになってしまっている地域ばかりだということ。これに気づいたときは驚いた。ただただ当時の自分の想像力のなさを悔やむしかない。
 2つ目はバス業界の不自由さだ。鉄道よりも道路を走るバス路線の方がフレキシブルに路線を付け替えられると思っていた。けれど、実際は路線の改廃・経路変更は難しいし、バス業界は鉄道業界以上に困難な状況に直面している。いまではこういうことも言えなくなった。
 最後は「まち」のことに携わる人のロードサイド店舗に対するもやっとした気持ちだ。私はロードサイド店舗を当たり前にそこにあるものとみなし、ほぼ同じエリアで様々なジャンルの買い物ができるのだから便利だと思っていた。
 しかし、「まち」のことに携わる人々は「人に優しいまちづくり」を優先的に考えており、そうすると人を選択してしまうロードサイド店舗は議論するまでもなく「敵」になってしまうのだった。また、その筆頭として大きなショッピングモールが槍玉に挙げられていたりする。

 いまにして思うと高校生の私の意見は未熟だったなとは思っている。
 一方で、市街地(中心市街地)至上主義にも疑問は抱いている。古くからの商店街は大切なモノか、ロードサイド店舗はなぜ栄えているのか、ロードサイド店舗はクルマを運転できない人を排除しているか。そこについては十分な議論がなされていないように感じる。そしてロードサイド店舗にも、市街地と同じく重心移動や構造変化が起きる。その情報が本当に少ない。それどころか(中心)市街地=まちの全体像と見なすむきさえあり、ロードサイドのことは端っこに少し書かれるだけのこともある。こうしたロードサイド軽視は「まちの姿」をきちんと記録できているといえるのだろうか。私はいつも疑問に思う。
 その思いを強くしたのが茨城県の国道124号線沿いにあるロードサイド店舗の集積だった。その重厚長大とも言える集積は、まちがいなく「まち」だった。この姿を記録しなければ、未来を生きる人々の選択肢を奪ってしまうとすら思った。

 もちろん、(中心)市街地のは歴史的にも都市計画的にも重要なことは理解している。また歴史を調べていても重厚長大で面白い。しかし、多様な生活が重なり合うのが「まち」であり、ロードサイド店舗やその集積もその生活の重なりが濃い場所でもある。だからこそ、「なぜここに濃い集積が生まれたのか」、「この集積はどうした要請にもとづくものなのか」、「まちのなかで集積がある地域はそれぞれどんな役割をはたしているのか」ということは俯瞰してみないといけないと思っている。その先に「まちのすがた」や「本当のまちの課題」が見えてくるのではないだろうか。

 いま、そういう想いもあって matinote の編集長なるものをやらせていただき、さまざまな街のことを書き残している。

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