見出し画像

2017年9月 帰省その2 「ひよっこ」と『Family Song』

 玄関を開けて表に出ると、刈ったばかりの稲のにおいがする。ありふれたこのにおいが、東京の住宅街では決して嗅げるものではないことを記憶に焼きつけて歩き出す。

 おととい、帰省の準備をしながらテレビをつけると、ミュージックステーションの特番をやっていて、岡崎体育が『explain』を歌い、その後タモさんが「よくできた歌だねえ」と笑っていた。飛行機に乗って太平洋から日本海へ移動し、バスでさらに海岸沿いを移動し、実家に帰り夕飯を食べ風呂に入り、2階に上がってテレビをつけたらまだタモさんが喋っていた。大変だ。ちょうど星野源が出るところだった。

 星野源についてはあまり詳しくない。曲についてはたぶんそのへんのおばちゃんと同じくらいにしか知らない。あとは、「サケロックにいて、大人計画にいて、キリンジが好きな、3歳ほど年下の人」というくらいだ。ヒット曲たちを聴くに、キャッチーなようで歌詞がよくわからない。詩のようで詩として成立していないような気もしていた。が、この『Family Song』のPVを観た時、ちょっと泣いてしまった。こんなソウルの解釈があるのか。おげんさんは私に似ている。まず最初から性別も年齢も超越してしまっている。

 深夜の音楽番組で星野源は、この曲について、「家族って、夫婦がいて子供がいて、みたいなのだけではなく、今は同性同士でも、犬や猫でも家族なんだと思う。そういったいろんな形の家族について書いた」というふうなことを言っていた。それは、子がおらず猫を看取った私にとても響く言葉だった。

 『Family Song』と、まもなく最終回を迎えようとしている朝の連続テレビ小説「ひよっこ」には、不思議と通ずるものがあると感じる。「ひよっこ」は、とことん「産まない」ドラマだった。女の一代記を展開しがちな朝ドラにあって、「ひよっこ」では出産のエピソードもなければ、母から子に何か受け継ぐといったエピソードもない。小さなエピソードとして、養子を迎えた(迎えようとする)2つの家族の話がささやかに差し込まれるほか、このドラマで描かれた2つの(これらもさほど大きくないエピソードである)結婚では、乙女寮の幸子の夫は海外に留学してしまうし、東京から奧茨城に嫁いだ高子も子を産んでいない(おそらく年齢的にも難しい)。いつまでも誰かのことを思い続けて生きる独身の女性や、富さんのように愛人として生きた人まで登場する。そして、彼ら彼女らは作中、常にその存在と人生を全肯定されている。

 およそ大きな事件が起きないこのドラマの中で起きた唯一の大きな出来事といえば、「父が家族を忘れてしまい、再び家族を作ろうとする」ということだ。田舎の農村一家ですら、母だから、嫁だからといった役割より以前に、まず個として描かれる。何もせずに母や嫁や父になる人なんていないし、なんの努力もせずに繋がれる絆などないのだ。記憶をなくした男と擬似家族を作る世津子のエピソードも象徴的だ。

 乙女寮でも、赤坂の商店街でも、あかね荘でも、彼らはお互いのことを当たり前のように心配し、その無事を祈りあう。東京に出てきたみね子は、故郷を愛しながらも、同じように赤坂の職場と仲間を愛している。それらは引き裂かれることはない。

 『Family Song』での「家族」の定義もまた、「相手の無事を祈る」だ。私も幼い頃、救急車のサイレンの音を聞くと、まず家族に何かあったのではないかと心配した(目の前にいるのに)。そして、もっとも盛り上がるCメロで私はわっと驚いた。

「あなたは 何処でもゆける あなたは 何にでもなれる」

 それは、すべてに「!」をつけてもいいくらいの力強い歌唱だった。あなたはここにいていいよ、いてくれるだけでいいんだよ、みたいな歌詞なら誰でも思いつくし予想もつく。それが、「あなたは! どこへでもゆける! あなたは! 何にでもなれる!」という最大級の全肯定だ。家族というテーマでこのフレーズが出てくるのがすごい。私を含めてさほど問題のない実家で育つ人間は、おそらくたいてい、幼少時に謎の全能感を埋め込まれる。その恥ずかしさを徐々に隠したり、時に2階の自室で取り出してみたりしながら、人は現実を見て大人になっていく。けれど、おそらく、大人になっても実は、人はどこへでもゆけるし、何にでもなれるのだという、これまで聴いたことのないほどの力強いメッセージだと思った。これがソウルミュージックなんだと、ソウルに詳しくないが思ってしまった。

 今回の帰省は、蝉の声がおさまった秋の夜のように静かに凪いでいる。前回の帰省時にここで日々の記録をつけていたが、読み返すとしんどい夏で、一部の文章を残して有料にしてしまった(つまり非公開にしたかった。まさかお金を払って読む人はいないだろう)。家族から邪気をかぶっている、眠れない、不快、つらいのオンパレードだ。今回はまる4日に満たない短い滞在であるがゆえ、あらが見えづらく、将来の心配もしないですんでいるだけかもしれないが、両親の様子は夏よりもかなり凪いで見える。東京に戻ったら、夫のことも、友人家族のことも、アルバイト先の人たちのことも、肯定できるだろうか。血の繋がった家族以外誰も愛さない人生だとしたらそれはあまりにも悲しい。他人を愛することはきっと人生の実績であり、作品のようなものではないかと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?