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金沢、90年代

1976年生まれは、中学1年から大学4年までが90年代にすっぽり入る。これを呪いと呼ばずに何と呼ぼう。

日本海そばの田んぼに囲まれた住宅街。高校受験前の夏休みを、私はフリッパーズ・ギターの『海へ行くつもりじゃなかった』とともに部屋ですごした。デートをしている連中も実際に海へ行っている連中もいるらしいが、私はベッドの上で歌詞カードを見つめて、一緒に歌えていればそれで満足だった。私は英語で歌が歌える!

この時点ですでに後追いだ。時は『ヘッド博士の世界塔』発売後の世界。2ヶ月後の私は、小沢と小山田の逃亡を、それとなく私の服や持ち物をチェックしはじめた塾の友達、しーちゃんから知らされることになる。「スポーツ新聞に載っとったよ」。それを平気で告げられたお前に、私の悲しみと喪失感の大きさがわかるものか。本気で何かを愛したこともないくせに。ところでスポーツ新聞ってなに?

それでも私は3年生の吹奏楽部引退後、母がパートから帰ってくるまでの放課後の時間、狂ったように彼らのVHSを見続けた。生まれたばかりの鳥の雛と同様、この時目に映ったものが私にとっての「おしゃれ」のすべてとなった。誰かから(母から)「勉強しなさい」と怒られたのは、後にも先にもこの時だけである。

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1992年、県立の地味な進学校に入った私は(Kan Sanoさんが後輩であることに驚愕している2019)、おしゃれブス道をまっすぐに進んでいた。勉強ができて運動ができない。男子から好かれたことなどもちろんないし、おそらくそんなことはこの先もない。それでも自分の地位と品位をなんとか保ちたい。となると文化系女子になるほかない。当時はもちろん文化系女子という言葉は存在しない。「こじらせ」もない。「サブカル」はあったかもしれない。それはただ日本の各地にこうして自然発生していた。石野卓球が「どちて? どちてブスはパッチンどめをしているの?」と「宝島」の連載に書いているのを読んでも、私は前髪にパッチンどめをしつづけた。ブス上等。

幸い私には2学年上の姉がいて、6学年上の兄がいて、音楽好きの父がいて、ステレオセットも、FMのエアチェックも、Oliveもmc Sisterも、全部上から降りてきただけである。自力では何ひとつ開拓していない。タートルニットは父から譲り受けたし、タータンチェックのスカートは姉に借りた。フロンティアに立つパイオニアたる長男長女のみなさん、尊敬します。

時は「2つに分かれたストーリーが新しい世界を開くだろう」の最中。私と姉は時に大阪にまで買い出しに行き、古着屋「ときめきスタイル社」で激安の赤いブーツを買って得意になって履いて歩いて足の裏を痛めたり、タワーレコードでよくわかりもせずにelレーベルのオムニバスを買って無理して聴き込んだりしていた。東京へは行かなかった。日帰りできないから。

私も姉も母の若い頃の服を掘り出しては奇抜な組み合わせを楽しんでいた。私は高校の3年間を、母の高校時代の学校指定コートを得意になって着て通学していた。それはベーシックなウールの黒のPコートで、裏地はサテンの見事なサーモンピンク。制服は地味な紺のブレザーだったが、私服ではそのPコートにタータンチェックのミニスカートやカラータイツを合わせ、ウールのベレー帽をかぶって金沢の街を闊歩していた。ベレー帽は10色くらい持っていて、PeeWeeの付録だったdouble K.O.のポスターとともに、自室の壁にひっかけて飾っていた(どんなポスターか知りたい人は検索してください。メルカリに出てます)。

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時代はそろそろルーズソックスに差し掛かる頃だというのに、金沢にはあまりその傾向はなかった。東京の女子高生がプラダのリュックを背負い始めた頃、金沢の女子高生は、ジーン・セバーグを知らぬままベリーショートヘアのもみあげを競争のように伸ばし、ドクターマーチンのブーツを履いていた(雪国なので足元のおしゃれが独自に発達しがち)。むろん、6割はゆるやかにヤンキー化する土地なので、これらはその他4割の女子たちだと考えてほしい。

そう、ベースとして7割がソフトなヤンキーという前提で読んでもらいたいのだが、それにしてもギャルは少なかった。残りの3割の女子高生はほんのり文化系のかおりをまとっていたのが90年代の金沢という街だ。柿の木畠や竪町の脇道、香林坊シネマストリートには古着屋が点在していたし、路面店の文化屋雑貨店と、「ラブロ片町」の地下にあった「大中」が、お金のない女子高生のおしゃれの生命線だった。その他、「レコードジャングル」をはじめとした中古レコード市場も当時から元気で、まだ「シネモンド」のような単館作品上映館はなかったものの、大学や公共スペースでしばしば上映会が行われていた。ある劇団の練習場で『アンダルシアの犬』を観てしまった私はちょっとしたトラウマを負った。

が、私がCDを買っていたのは、高校の近くにあった「メロディハウス」という、どこにでもあるような町の小さなレンタル店兼CDショップで、楽しみにしていた新譜も、背伸びして聴いておくべきだと思った旧譜も、だいたいは取り寄せた。メロディハウスでCDを買うと、おまけとしてCDマット(ケースの中で傷がつくのを防ぐふわふわした下敷き)がついていたのだが、今もこのCDマットとともにケースに収められたCDをたくさん持っている。盤を仰々しいほどに大切にしたレコード時代の名残なのかもしれない。そして、『ヘッド博士の世界塔』の初回盤はこの店の棚でいともたやすく見つかった。発売からゆうに一年は過ぎていたと思う。

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徒歩範囲内の小さな街に、おしゃれな場所があり、そこには分かりやすくおしゃれな人が集っていた。あの店へ行けば金沢でいちばんおしゃれな人たち、文化的に進んだ人たちが集まっている、ということが明確な街。人口は50万人に満たないけれど、90年代の金沢には、地方には貴重な「都市文化」があったと思う。今にして思えば、そのような徒歩圏内のキュッとした文化的サークルを育ててくれたのは、小立野にある金沢美術工芸大学と、金沢城の敷地内にあった金沢大学の存在が大きかったのではないだろうか。

私のように文化屋雑貨店のカエル柄のリュックを背負ってサボを履いて通学するほど自意識過剰ではなくても、進学校のそれなりに服装に気遣う女子たちは、OUTDOORやCampionのバッグを持ち、ニューバランスを履いて通学していた。ルーズソックスを履いてポケベルを持って髪を巻いている子は学校に1、2人しかいなかった。逆に、エルメス風のスカーフを巻いてストッキングを履く子もいなかった(私はこの人種を上京して初めて目にし衝撃を受けた)。あの頃の金沢は私にとって実に泳ぎやすい街だったのである。

コーネリアスと小沢健二の活躍は地方都市の進学校の女子高生にも降りてきていた。信じられないかもしれないがそんな時代だったのだ。登下校しながらクラスメイトと「オリジナル・ラヴの新しいの聴いた? なんか『結晶』のほうがかっこよかったよね」などという話もできた。バレー部の女子もバスケ部の女子も、「カローラⅡにのって」を歌いながら教室を移動していた。そうなってくると面白くない。私はヒット路線に乗り始めたオザケンからは早々に立ち去った。田園地帯から東山のあたりまでを毎日バスで通学しながら、私はイヤホンを耳に突っ込んでハードボイルド「犬」リスナーを続けていた。もしくは矢野顕子の『Super Folk Song』。

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「犬」

そうして音楽を聴きながら悦に入っている時に邪魔をするのが、武蔵ヶ辻か香林坊での乗り換え時に同じバスに乗ってくるしーちゃんである。彼女は私より1ランクだけ下だといわれる県立高校に入学していた。ねえ、トラットリアのコンピ聴いた? うちブリッジが好き。と、うっすら私の顔色を伺うように彼女は言った。あー、ブリッジ? フォロワーって感じやけどねー。まあカジくんはすごいんじゃない?

堂々と言えないなら言わなきゃいいのに。本当に好きなら胸を張れよ! 私は彼女を蔑んでいた。軟式テニス部に入って、髪がサラサラで、フカフカのスニーカーを履いて、それなりにモテているならこれ以上何かを欲しがるな。「一般ウケ」を捨てる覚悟もなしにこっちへ入ってくるな。話しかけてくるな。もっとひとりの時間を大事にしろよ。

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しかし、私にも入り込めない「金沢文化系」の世界があった。それは「クラブ」である。

90年代、金沢のクラブシーンは熱かったと聞く。とはいっても実情は私にはわからない。当時どんな音楽がかかっていたのか今もわからない。おそらくヒップホップではなく、東京でのロンドンナイトに憧れた人たちがロックで踊っていたのだと思う。あるいはロックステディ、スカ、レゲエ。アシッドジャズも入ってきた頃だろうか。金沢にはM.A.T.というクラブがあった。そこは全国的にも有名らしく、全国ツアーで来たレピッシュのMAGUMIなどもそこでDJプレイをしていたそうだ。

進学校に通い、ド郊外に住む私は、ライブを観て終バスで帰ることはできても、さすがにクラブには行けない。行けるはずがない。普通の家庭はそうだろう。酒とタバコにまみれて朝まで踊る場所に、いくら音楽好きだろうと行かせてもらえるはずがない。時折ホールライブなどを観に行くことは何も咎めなかった両親だが、「クラブって…別に悪いところじゃなくて音楽好きな人が集まっとるらしい…」と私が言ったところで、即却下である。当たり前だ。もし私がいま人の親になったって同じ判断をする。

が、なぜかクラブに行っていた同級生がけっこういたのである。それは、当時金沢市内で私を含めゆるやかにつながっていた、工業高校からのちに桑沢へ進学した友達にも、同じ高校で金沢の中心部に住む友達にもいたのだ。そこには「CUTiE」のクラブスナップの撮影班がよく来ており、顔見知りのうちの誰かがしばしば載っていた。私はハンケチを噛みたい気分だった。ひときわその中ですました存在感を放っていたのは、片町の料亭の娘だったチヒロ。当時の金沢のクラブシーンで彼女を知らない人はいなかったと思う。彼女は70年代ファッションの私をクールな目で一瞥して、「まあ、よくいるタイプね」とでも言いたげな顔をした。彼女はGジャンに黒スカートなどのシンプルなコーディネートの中に、コムデギャルソンやヴィヴィアンウエストウッドのアイテムをさりげなく取り入れていた。ああ、靴下でもいいからあの地球と十字架みたいなロゴマークがほしい! という気持ちを私はひた隠しにし、ブランド物なんてダサいと強がりつづけていた。彼女が音楽好きだったのかどうかは疑問だ。

いったいどうやってクラブへ行っていたのか。底辺校の人たちはまだわかる。徒歩や自転車で行けるからといって、夕食後にM.A.T.へ行って24時前には帰宅するという友人たちの家庭環境が謎で仕方なかった。親をまいて夜外出するなんて想像しても無理だ。風呂に入った後コンビニにでも行くといった足で出かけるのだろうか。その謎は未だ解けていない。まだまだ子供の数が多かった時代、意外とみんなほったらかされて育ったのかもしれない。2019年現在、M.A.T.についてはどんなに検索しても一切の情報が出てこない。竪町の近くにあったはずだが場所も定かではない。まだインターネットがなかったことで、地方には、こうして埋もれていったものごとがいくらでもあるのだろう。語り尽くされた東京とは違って。

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そんな私にも唯一、夜の世界との接点が持てる場所があった。それが、シネマストリート入口で現在socialの隣、ハントンライスで有名な「グリルオーツカ」の斜向かいの「悟空ビル」地下にあった、「マッドガレージ」という古着屋だ。そこは昼は古着屋で、夜はクラブになる。もちろん私が訪れるのは昼なのだが、バーカウンターがあり、店内は服を売っているとは思えないような青い照明である(服をしっかり見たい時はわざわざライトの下に持っていく)。しかも古着は激安で、私と姉はその店の常連となっていた。時に母の70年代の服(昔の人は物持ちが良い)を売っぱらうこともあった。女子高生が姉妹で来ることなど珍しかったであろうし、私たちはすぐに覚えられた。女性店主のAさんと男性店主のTさんは私の憧れだった。ある日、珍しく土曜の放課後に香林坊をクラスメイトと歩いていると、交差点をヴェスパを押して渡る、ツイードのジャケットを着たTさんにばったり会ったことがあった。

「あっ、ナオちゃん!」Tさんが笑顔で近づいてくる。その瞬間が私の高校時代のハイライトであったことは言うまでもない。「なんであんなおしゃれな人と知り合いなん!?」というクラスメイトたちの追求をどうかわしたのか覚えていない。たぶんニヤニヤしながらバスに乗って帰ったのだと思う。今はなき悟空ビルのあたりは今も金沢の文化系の中心地だと思っている。

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こうして書くと、いかにも金沢での90年代前半を謳歌していたかのようだが、これらは印象に残ったわずかな事柄でしかない。しかもほとんどは高校1年生の時のことだ。自宅から遠い、中途半端な進学校に在籍していた私は、毎日の睡眠時間は5時間に満たず、そのほとんどを吹奏楽部の練習と、大真面目に勉強、つまり学校から出される課題に費やしていた。その日々はあまりに過酷で、これらのキラキラした思い出以外は、通学のバスから見た景色とその時聴いていた音楽くらいしか覚えておらず、記憶がとんでいるのである。ほんとうに、成長期の若者にあんな生活をさせてはいけない。私は幾度となく体調を崩し、一度は本当に高校を辞める話が出た。赤黒かった肌は3年間で真っ白になった。にもかかわらず私は部活を辞めず、出された課題はきちんと仕上げていたのである。この性格は今も変わっていない。

部活を引退し、進路を私立文系に定めてからは、私は完全に「私立文系受験パンク」と化した。そしてスパーンと、私学の雄たる東京の大学の文学部に合格し、新聞社が取材に来た。合格の秘訣はなんですか。そんなものは知らん。私はライブも見たし映画も観た。好きなことは続けた。何か験担ぎなどしましたか。皆無。同級生たちから逃げて逃げて逃げて、私はとうとうここまで皆を引き離したんだ。そして目指す場所はただ一つ。渋谷HMVのrecommendationコーナーだ。

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※事実を元にしたフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。





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