おじさんが死んだ

今年の桜が開花した頃、親戚のおじさんが死んだ。
ずいぶんと前から癌になって入退院を繰り返していた。最近は認知症が進み、社会生活もままならなくなっていた。

1930年に生まれの89歳だった。若い頃から外国航路の船員をしていた。そのおかげで年金はたっぷりあった。
だけど子供はいなかった。奥さんが一度妊娠したが流産したらしい。そのせいか、僕を実の孫のように可愛がってくれた。

中国が大嫌いな人だった。船員として中国に立ち寄った際に、文化大革命の惨状を目にしたからだ。親の世代や教師を若者が吊るしあげて集団で罵倒し暴行する。その光景を忘れることができないと酔ったときに僕に漏らした。

学歴にコンプレックスがある人だった。戦前の船員の世界は学歴社会だったからだ。高等商船学校を出た人は超エリートで若くして船長になる。彼らのような学校を出た高級船員は士官と呼ばれ。学校を出ていない船員とはもの凄く待遇に差があった。個室を与えられ、食堂も別。それを見てきたせいか、学歴の話をよくしていた。


だけど、僕に対して勉強しろとは言わなかった。代わりに、「あまり偉くなるなよ」といつも言っていた。
僕はうつ病になるくらい親に勉強しろと言われて育ったので、その言葉は救いであり逃げ場所でもあった。偉くなんかならなくていいと思って生きていられるのはおじさんのおかげだ。

亡くなる2日前に最後のお見舞いに行った。正直に言って、会うのはとても怖かった。老いて死ぬことはこういうことだという現実を突きつけられるからだ。
当時の僕は何十回目かのひどい鬱のどん底にいて、毎日死ぬことを考えていた。主治医に相談すると、「会わないと後悔するから行って来なさい。」と優しく背中を押された。
僕はうつ病のせいでほとんどお見舞いに行けなかったので、数年ぶりの再会だった。

大柄で体格のいい人だったが、やせ衰えて子供のような体つきになっていた。もはや回復は望めないということで、鎮痛用の医療麻薬を投与されて眠っていた。
「おじさん、来たよ。」と声をかけても反応はなかった。これが最後のお見舞いになるということはわかっていた。粘り強く声をかけて肩を揺らす。もう無理だったか。顔だけでも見れてよかったと帰ろうとした時、薄っすらとおじさんの目が開いた。
「おお…よう来たな…。」と言って微笑み、震える手を持ち上げて、僕の頭を抱きかかえた。
そして、「元気でやれよ…。」と声を絞りだした。それは、僕と別れる時に口癖のように言っていた言葉だ。

感情が、止まらなくなった。悲しいのか、寂しいのかはわからない。あらゆる感情が喉にこみ上げ、唇を噛み締めた。
おじさんは昔から無口な人だった。会話が長続きしたことはない。この時もそうだった。
でも、それでいい。僕たちの間に、多くの言葉は必要ない。「ああ、元気でやるよ。」と答えて手を握ると、おじさんは微笑みながら再び眠りについた。看護師さんに礼を言って病院を出ると、無性に煙草が吸いたくなった。病院を全面禁煙にされるとこういう時に困る。

「元気でやれよ」という言葉がとても好きだ。「頑張れ」でも「しっかりやれ」でもなく、「元気でやれよ」。
僕がいつかおじさんのところに逝くまで、元気でやっていきたいと思う。

おじさん、ありがとう。お疲れ様。


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