生きることは惑うこと

皆さんは決断が得意ですか?僕は苦手です。決断を下すこと自体はできても、その決断が間違っていたのではないかと数秒後から一生にかけてぐだぐだと後悔をしてしまいます。自分の人生で「あの決断は間違っていなかった」と胸を張って言えるものが殆ど無いです。

四十にして惑わず…というのを古典の授業で習った記憶がありますが、今思うと僕は40歳どころか70歳になってもうだうだくよくよ迷っていそうな気がします。できる人は僕よりはるかに年下でも迷わないんでしょうね。

年を取るにつれて、世の中のことが段々とよくわからないと感じるようになってきました。子供の頃に見えた世界は、もっと単純だった気がします。15歳くらいのときには、なんとなく世界の中に「わからなさ」のかけらが見えるようになりました。18歳くらいから、それはだんだん大きくなり、25歳を超える頃には「僕の力ではこの世界のシステムは到底把握できないな…」と感じるようになりました。その気持ちは年々強くなっていっています。

しかし、世界がよくわからないことによって楽になった面もあります。若い頃の僕は、「自分の人生は己の努力によりコントロールできる。それができなければ人生の敗者になる。」と信じて疑わなかったと思います。挫折や後悔や絶望を経験していくに従って、自分の人生は自分の力ではコントロールできない部分がかなりあると気づくようになりました。もし神様に過去に戻してあげるよと言われても、僕はあまりノリノリにはならないと思います。過去を変えることができても、今よりマシになる可能性が高いとはもう思えなくなりました。でも、「人生に失敗しても自分を責めたり、自殺しなくてもいいんだよ」とは過去の自分に伝えてあげたいなと思います。

最近、インターネットで社会問題の議論を見るのがしんどくなってきました。ここ数年間の僕は、「自分がこんなに辛い思いをしているのは社会のシステムに問題があるに違いない」と信じて、そうした情報を読み漁っていた気がします。それは必ずしも悪いことではないとは思いますが、なんというか「お腹いっぱい」になっちゃった感じです。この世には完璧な社会も個人もおらず、みんな必死にやりくりしながら日々をやり過ごしている…みたいな世界観が少しづつ出来てきました。それがいいことなのか悪いことなのかすら僕にはわかりません。ただ、僕を含めた生きづらいすべての人が少しでも生きやすくなってほしいなぁ…というぼんやりとした願いはあります。

決断力って、かっこいい言葉ですよね。残念ながら、僕にはその能力は欠けているみたいです。僕は今後の人生もみっともなく惑って生きるのでしょう。でも、それもしょうがないな…と思えるようにはなりました。年の功…みたいなものが僕の人生にも出てくると嬉しいですね。

たとえ惑ってばかりの人生でも僕とあなたの人生は生きているだけで大したものだと思います。結果にコミットできない人生でも、卑屈になる必要はないと思います。惑うことも含めて、大切な人生の1ページなのだと信じます。大いに惑って生きていきましょう!


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