他人と自分を肯定すること

僕は不寛容な人間だった。とてもとても不寛容な人間だった。
「きちんとしなければならない」といつも自分に言い聞かせていた。自分がこれだけきちんとしているのに、なぜ他人はきちんとしていないんだろうといつも思っていた。自分を律した分だけ他人を律しようとして、他人の粗探しをした分だけ自分の粗探しをしていた。さすがに他人を口に出して責めることはできるだけ控えていたつもりだったが、見る人が見れば僕の傲慢さにはすぐに気づいていただろう。

そのまま人生を順調に生きていけるはずもなく、やがて僕は壊れた。きちんとしていない僕は生きている資格がない。その考えは寝ていても起きていても僕を責め立てた。

20代の大半をメンタルクリニックへの通院とカウンセリングに費やすうちに、考えが変わってきた。信じているものが変わったというべきかもしれない。それはゆっくりとだが、確実に変わっていった。

いくら正しいことでも、その人にとっては不可能なことはいくらでもある。いくら努力しても、できないことはあるしそれは責められるべきことではない。その考え方を得るのには、思い描いていた理想の人生を全て捨てる必要があった。

病状が軽くなるにつれて、他人に対して腹を立てることが少なくなっていった。もし僕がこの人の立場だったらもっと上手くやれる自信はない、この人にはこの人の事情がある。それは普通の人にとっては当たり前に身に着けて当然の感覚なんだろう。でも、僕は壊れるまではそれを身につけることができなかった。壊れてからやっと身につけることができた。今もそうだが、なんて未熟な人間だと思う。

社会に完璧な人間などいない。完璧でない人間が集まって、完璧でない社会をどうにか回していっている。これに気づいた時に、閉じていた視界がゆっくりと開いていく気がした。

あなたがどういう人間であれ、あなたは生きていていいと僕は信じる。そして僕も生きていていいのだと信じたい。そう思えない時もよくあるけれど、それでも僕はあなたと自分の生を無条件で肯定したい。


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