苦しみと向き合う

官僚の息子が父親に殺されたというニュースを見た。

息子は家庭内で暴力を振るったり、インターネットでは悪い意味で有名人だったらしい。

「世間」の反応は、父親に同情するものが多いようだ。それはまぁそうなんだろう。

確かに、彼の言動は褒められたものではなかったかもしれない。でも、僕は彼が殺されてよかったとか当然だとかは考えたくない。

一歩間違っていたら、僕も彼のようになっていたかもしれない。あるいは、これからなる可能性は十分ある。

彼に必要だったのは、父親に包丁で刺されることではなくて、適切な精神医療を受けて自分の苦しみと向き合う時間だったのだと思う。そのために精神医療や社会福祉はあるのだと思う。

もちろん、彼の家族はそれを受けさせようと努力したのだろう。彼にも落ち度はたくさんあったのだろう。だからと言って、殺されることが正当化されて欲しくないな…と思う。それとは別に、父親の人権の保障と心のケアも十分なされるべきでもあると信じている。

僕がメンタルクリニックに通い始めてから8年が経った。主治医との付き合いは下手な夫婦より長い。
その間、何度も自殺しそうになったこともあった。家から一歩も出られなかったこともあった。

それでも、現在どうにか日常生活を営めているのは主治医のおかげだと思う。治療に疑問を抱く瞬間もあったが、素人の自己判断よりはよほどマシだと自分に言い聞かせてきた。

一つ歳を取るごとに、生きるのが楽になっている気がする。22歳の頃には許せなかったことが、今は特に心をざわつかせない。「生きてりゃ色々あるよね。しゃーない」という感じで、流せる物事が増えてきた。

相模原障害者殺傷事件の植松聖被告についてよく考える。僕とだいたい歳が同じ。彼に必要だったのは、日本を救うヒーローになることではなく、医療の力を借りて社会と折り合う方法を見つけることだったのではないかと考えている。

好きな漫画のセリフに「殺すな、殺されるな」というのがある。
大砲とスタンプ(モーニングKC 速水螺旋人)という漫画だ。
このnoteとは全然関係ないアクションシーンでのセリフだけど、僕はこのセリフを生きる指針としている。

僕は誰も殺したくない、誰にも殺されたくない。医療の力を借りて、自分の苦しみと折り合いをつけて、どうにか無事に人生を全うしたい。
ささやかだけど、とても大変なプロジェクトだ。

なんとかなると思える日もあるし、そう思えない日もある。それでも、どうにかやっていけたらなと思う。

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