「『ソロモン消費者行動論』監訳者あとがき」のいささか長過ぎる草稿

 丸善出版から出版予定の『ソロモン消費者行動論』の監訳者あとがき草稿です。謝辞を入れると6千字を超えたので、もしかしたら「短くせよ」と言われるかもしれません。

■ 本書の魅力

 本書は、消費者行動論の標準的テキストとして世界的に評価の高い『Consumer Behavior: Buying, Having, andBeing』の日本版である。底本は、北米版の第10版である(なお今年2月に第11版が発売されている)。本書は、北米にとどまらず、アジア、ヨーロッパ、南米、中東などの大学で利用されており、これまで各国版が出版されてきた。これまで消費者行動論のテキストブックとしては、Roger D. Blackwell、Paul W. Miniard、James F. Engelの『Consumer Behavior』や、J. Paul PeterとJerry Olsonの『Consumer Behavior and Marketing Strategy』が定番であったが、現在では改訂されていない。こうした中、本書は2年に一度の改訂を着実に重ねてきており、定番としての地位を確立しているようである。

 著者のマイケル・R・ソロモンは、本書冒頭にある「著者について」にあるように、世界的に著名な消費者行動研究者である。その業績は、ライフスタイル、ブランディング、製品の象徴的側面、ファッションの心理学など多岐にわたる。その中でも例えば『Journal of Consumer Research』誌に1983年に掲載された「社会的刺激としての製品の役割:シンボリック相互作用論に基づいて(The Role of Products as Social Stimuli: ASymbolic Interactionism Perspective)」は、シンボリック相互作用論の理論枠組みを消費者行動論に導入した古典的な論文として、長年、高い評価を受けている。ソロモン教授は、多くのテキストブックもものにしている。同書のファッション版『Consumer Behavior: In Fashion』や『Marketing: Real People, Real Choices』を世に送り出しており、特に後者は第7版まで版を重ねている。

 おそらく読者は、800ページを超える本書のボリュームに圧倒されていることだろう。この桁外れの分量(と価格の高さ)は本書の欠点と言えるかもしれない。しかしながら、このテキストブックには、それをはるかに上回る魅力がある。この魅力こそが、わたしたちが邦訳版を世に送り出そうとしたモチベーションである。以下、5点にまとめてみよう。

 第1に、消費者行動論の学問的多様性を反映して、多種多様な理論や概念が紹介されていることである。消費者行動論という学問分野は比較的若い学問であるが、莫大な数の研究が展開されてきた。第1章の最後にあるように、経済学、社会心理学、社会学、文化人類学をはじめとして実に多様なディシプリン(基礎学問分野)から参入した研究者が、消費者行動という現象について興味を持ち研究を行ってきた。たしかに、理論的な体系構築という点では発展途上にある学問分野である。しかしながら、その幅広さがゆえに、理論的に、あるいは概念的に豊穣な学問分野であるとも言える。これまでのテキストブックは特定の学問分野に焦点を合わせたものが多かったが、本書は学問的多様性とその成果について、見晴らしよく俯瞰することができる希有なテキストブックである。特に、第5章(自己)や第14章(文化)などには、日本語では学習することが難しいが興味深い論点が多く含まれている。

 第2に、消費者行動研究の最新の成果と情報が反映されていることである。各章には「消費者行動、私はこう見る(CB As I see It)」というコラムが掲載されている。このコラムの著者は、消費者行動論で質の高い成果を上げてきた研究者たちである。自分の研究に基づいて、具体的な消費者行動を理解するための洞察や知恵を共有してくれている。これらを読むと分かるように、消費者行動論は、その取り扱いの範囲を広げてきた経緯がある。消費者行動は、かつて購買行動(buying behavior)と呼ばれていたことから分かるように、購買時点についての関心が高かった。というのもマーケターは、どのような理由で買ったり買わなかったりするのか、ということに関心があったからである。しかし購買したモノを使用し、さらに長年使用したモノを廃棄することもまた消費である。第1章で明確に述べられているように、消費者行動は、購買・使用・廃棄のすべての段階を含むものである。こうしたことから近年の消費者行動論では、使用段階や廃棄段階についての研究が進められている。本書は、この近年の動向もきちんと反映した内容となっている。

 第3に、グローバル化という現実を反映して、世界各地で観察されるユニークな消費者行動やマーケティングの事例を豊富に紹介してくれていることである。各章においては、アメリカに限らず、アジア、ヨーロッパ、中東、南米などの事例に充ち満ちている。この文化的多様性への目配りは、本書の後半に進むにつれてより顕著になる。自分が知らない文化の消費文化を知ることで、地に足が着いた異文化理解が(特に若い学生の間で)促進されることが期待される。さらに言えば、多様な事例を知ることで、学んだ理論や概念と現象との間での対応関係を頭の中に作ることできるも期待される。「消費者行動論」という名の通り、この学問分野は具体的な出来事(現象)を取り扱うものである。したがって、理論や概念が説明しようとする具体的な現象がどのようなものか、ということは、いつも気にすべきである。そのための工夫が本書では随所に見られる。  

 第4に、上記3つの特色にもかかわらず、単純明快な文章で大量の情報を体系的な構成に基づいて整理されていることである。本書は、導入(セクション1)の後、知覚や学習といった個人内プロセス(セクション2)についてまず説明し、それに基づいてどのような意思決定(セクション3)がなされているのかを学び、その上で、家族や集団や社会といった他者との相互作用に関する問題(セクション4)について取り上げている。このようにミクロ的な問題から次第にマクロ的な問題に展開する本書の構成は、直感的にも理解しやすい。こうした構成に加えて、章をまたいだ関連性についての言及が随所に見られるのも親切である。例えば第3章の「観察学習」の話は、第10章で子どもが親の行動を真似るという社会化プロセスについて説明する際に取り上げられている。こうした内容が分かりやすい文章でシンプルに説明がなされている。 

 第5に、消費者行動論はマーケティングの婢ではない、すなわち消費者行動論がマーケティングにのみ資する学問分野ではないことが、明確に主張されていることである。これについては、不思議に思う読者もいることだろう。マーケティングとは、顧客についての洞察に基づいて適切なモノやサービスを提供することで利益を得る行為である。したがって消費者行動論はマーケティングのために存在すると考えてもおかしくない。しかし第1章の後半に、公共政策についての議論があったり、第6章の最後に消費者行動の負の側面について解説があったりするように、消費者保護・教育といった観点も強く重視されていることが分かる。近年、消費者の福祉に貢献することを目指す変革志向消費研究(transformative consumer research)という新たなアプローチが消費者行動論において盛り上がりを見せている。こうした近年の動きも反映されたテキストブックである。

 ■ 邦訳版の制作方針・プロセス 

  以上のように、本書は多彩な魅力を備えたテキストブックである。しかしながら、本邦訳版ではすべての内容をそのまま翻訳しているわけではない。長年に渡って愛されるテキストブックにするために、邦訳版の制作の基本方針として、理論や概念の解説は忠実に翻訳し、事例を日本の読者に馴染みがあるものに書き直すことにした。というのも紹介されている事例の多くが、日本の学生にとってなじみのあるものではないため、「理論や概念と現象との対応関係と作る」ということに関して難しさを感じたためである。ただし、すべてを日本の消費者なりマーケティングの事例に修正したわけではない。日本の学生もまたグローバル化する経済に直面しており、世界で起こりつつある現実を学ぶことは重要である。上述の3つ目の魅力を削がないことに気をつけて加筆修正を施した。 

 本書には下訳が既にあったため、それを加筆修正する作業が邦訳版制作の中心となった。手順は次の通りである。まず監訳者の学部ゼミナール3年生が、各章で紹介されている事例を吟味して、どれが分かりにくく修正すべきなのか検討してもらった。また訳文などの問題点など検討してもらった。これをゼミに持ち寄って、書き換えるべき事例について調査した内容を発表してもらい、全員で議論した。この1年近くかけて行った内容は、ワードやパワーポイントのファイルにすべて記録された。 

 この学生の作業内容を踏まえて、若手、中堅レベルの信頼できるマーケティング研究者6名と監訳者が分担して、下訳の修正作業を行った。全14章なので、1名2章分を担当した。まず、理論や概念の解説が適切かどうか確認した。邦語では、(ほぼ)はじめて紹介する理論や概念も少なくなかったため、適切な邦訳を見つけるのが難しいものもあったが、できる限り読みやすい翻訳を心がけた。次に、事例の書き換えである。学生が作成した資料を参考に、読者にとって自然な理解が可能になるような事例を選び書き直した。また事例の量が過剰であると判断される部分は削除した。さらに本書では、各章の冒頭に、架空のアメリカ人消費者についての小話(vignette)がある。その内容は、日本の読者にもなじみやすいストーリーに全面的に書き直している。 

 以上の基本方針は、キックオフの全体ミーティングにおいて共有した。その後、加筆修正した翻訳原稿については、担当者と監訳者がミーティングを行って内容を確認した。また初校、再校においても、各担当者が校正した内容を監訳者がすべてチェックした。 

 本書には、囲み記事(「Net Profit(ネットの恩恵)」「The Tangled Web(危険なウェブの罠)」「Marketing Opportunity(マーケティング機会)」「Marketing Pitfall(マーケティングの落とし穴)」)が、各章に多数掲載されている。これらについては、邦訳版ウェブサイトにて内容を確認できるようにしたので、本書から割愛してある。

 この大部のテキストブックは、以下に述べるように、学生を含めた様々な人々に読んでもらいたいと考えている。監訳者が担当する学部授業(消費者行動論)で学生に尋ねたところ、価格の高さと持ち運びの大変さについての指摘がとても多かった。こうした負担を多少なりとも減らすために、類書では珍しいことであるが、3分冊版も、同時に出版することになった。 

 ■ 期待される読者 

  本書の読者としてまず期待したいのは、実務家である。というのも顧客のないビジネスなど定義上あり得ないし、どのようなビジネスにおいても顧客を深く理解することは成功するための必須条件だからである。本書で紹介された多種多様な理論や概念は、消費者を理解するためのいわば「メガネ」である。丁度可知差異、代理学習、葛藤、自己概念、バランス理論、文化資本、神聖化など、こういった「ことば」を知ることで、そのことばを知らない人には見えないことが見えてくる、すなわち景色が違って見えるはずである。急いで付け加えるならば、ここで言う「実務家」は民間企業の人々に限らない。上で消費者行動論はマーケティングの婢ではないと述べた。「メガネ」は、消費者保護に携わる行政担当者やソーシャル・ビジネスに携わる非営利組織の人々にとっても有益であるはずである。 

 以上のことは、将来、社会に出る大学学部生についても言えるだろう。上述のように、消費者行動論は多様なディシプリンに基づいている。そこから借用した理論や概念を用いて消費者行動を分析しようとしている。これは逆に言えば、人間や社会について深い洞察を得るための道具立てを、消費を軸に収集してあるとも言える。したがってこのテキストブックの内容を身につけることで、消費者行動はもとより、人や世の中の動きについて自分の頭で考えることができる「構え」が身につくことが期待される。 

 研究者を目指す大学生・大学院生や研究者にも、ぜひ読んでもらいたいと考えている。多様なアイディアや事例に充ち満ちた本書は、卒業論文、修士論文、博士論文のアイディアの源泉になることは間違いない。そうしたことから、各章の末尾にまとめられた参考文献は割愛していない。こういった研究者の「卵」のみならず、プロの消費者行動研究者にも本書は参考になるのではないか、と考えている。というのも、本書の包括性がゆえに、あるディシプリンに依拠して消費者行動を研究してきた者が、他のディシプリンとの関係において、自分の立ち位置がどのようなところにあるのか、ということを確認する上でも有用だからである。方法論的多様性や学問的多様性を実現するには、他のディシプリンについての理解や共感が不可欠だが、専門性がゆえに、なかなか難しいことである。本書は、こうした困難を克服する一助となると思われる。 

 最後につけ加えるならば、監訳者としては、本書は誰もが読むべきものであると、実は考えている。なぜならば、資本主義社会に生きるわたしたちは、皆「消費者」だからである。ゆりかごから墓場まで、わたしたちは市場で売られているモノやサービスを購入し、使用し、廃棄している。わたしたちは生まれながらにして「消費者」であるから、時には、消費者であることの意味を考えるべきだろう。自分を様々な角度から省みるための道具立てを本書は提供してくれるはずである。

■ 謝辞

  監訳者は、自分の学部ゼミナールにて本書を長年にわたって輪読してきた。この愛着があるテキストブックの翻訳プロジェクトを担当できたことは望外の喜びであった(以下省略)。

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