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好きなものを否定されるのが嫌い

好きなものを好きといって何が悪いのか。

理由もなく好きなものを否定されることほど嫌なことはない。

LGBTQの人たちが他者から受ける反応を見ていて思った。

なぜ彼らのことを忌み嫌う人がいるのか理解できない。好きなものを好きと言っているに過ぎないのに。

私がカレー好きなことを誰が咎められるというのか。

歴史的には、中世から近世初期にかけての日本の武士や、古代ギリシア・古代ローマのように、男性間の同性愛行為が制度化されていたり、公然と行われた文化も存在したそうだ。

古代ギリシアでは、制度化されていた少年愛を同性愛として含めると、同性愛は単なる恋愛・性愛のバリエーションの1つであり、異性愛との区別自体が無く、同性と肉体関係を持っても同性愛者という概念自体が存在しなかったという。

当時のギリシアにおける自由民成人男性の性対象は女性、少年、奴隷、外国人のうちどれを選んでもよく、むしろ生涯で片方の性にしか性欲が湧かないことは通常ではないとされていた。

もともと、同性愛に「意味」などないのだ。誰かがそれに「意味」を付けた。

誰が同性愛に「意味」を付けたのか

キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などでは同性愛を禁止する宗派は少なくなく、仏教においても男色者が落ちる地獄があるそうだ。

その行為に「意味」を付けたのが神や仏であるのか、神を信じる誰かなのか、神を利用した誰かなのかは分からないが、誰かが同性愛に「神の意志に反する」という「意味」を付けたのだろう。

「歴史を通して、ほぼ全ての社会で、穢れと清浄の概念は、社会的区分や政治的区分を擁護する上で主要な役割を果たし、無数の支配階級が自らの特権を維持するために利用してきた。ただし、穢れに対する恐れは、聖職者や君主による完全な作り事ではない。病人や死人といった、病気の潜在的な感染源に対する本能的な嫌悪を人間に感じさせる、生物学的な生存の仕組みに根ざしているのだろう。女性、ユダヤ人、ロマ、ゲイ、黒人など、何であれ人間の集団を分離させておきたければ、彼らが穢れのものだと誰にも思い込ませるのが、最も有効な手段だ。」(ユヴァル・ノア・ハラリ)

過去には、同性間による性的行為によって、病を患うことがあった可能性は否定できないが、現代でも同じことが言えるだろうか?今やその行為は穢れとは関連がない。

2008年12月に、国連総会において「性的指向と性自認に基づく差別の撤廃と人権保護の促進を求める」旨の声明が出された。日本はこれに賛同している。

しかし、彼らを不浄と感じる人は未だに少なくないのではないか。単なる思い込みに過ぎないのに。

別に男が男を好きでも、女が女を好きでも、両方好きでも、別によくねーか?

ということを考えたりもする。。。



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