「人生に目的なんてない。」と言い切る人が好き
「人生に目的なんてない。」と言い切る人が好きだ。
目的(もくてき、ギリシア語 τέλος テロス、英語 goal)とは、成し遂げようとすることがら。行為の目指すところ。(広辞苑)
らしい。
『自然学』(アリストテレス)第二巻第三章では次のように記述されている。
「物事の終り、すなわち物事がそれのためにでもあるそれ(目的)をも原因と言う。たとえば、散歩のそれは健康である、というのは、「人はなにゆえに[なんのために]散歩するのか」との問いにわれわれは「健康のために」と答えるであろうが、この場合にわれわれは、こう答えることによってその人の散歩する原因をあげているものと考えているのだから。なおまたこれと同様のことは、他の或る(終わりへの)運動においてその終わり(目的)に達するまでのあらゆる中間の物事についても、たとえば痩せさせることや洗滌することや薬剤や医療器具など健康に達するまでの中間の物事についても、言える。というのは、これらはすべてその終わり(すなわち健康)のためにある物事だから。ただし、これらのうちでも、その或る物事(前の二つ)は行為であるが、他の或る物事(後の二つ)はそのための道具である(そして道具はさらに行為のための手段である)という差別がある。」
アリストテレスの場合、目的は個人の自己決定によるものではなく。「神的なものに与ること。」を必然の目的としていたそうだ。
その他にも神によって目的が与えられるという考えに至り、そこから神の存在を証明しようとする哲学者もいた。
18世紀にドイツの哲学者クリスティアン・ヴォルフが創ったとされる、目的論という考えがある。
自然の諸事物のうちにさまざまな意図があり、その意図は神の意図ともされ、プロテスタントとしてのヴォルフが目指したキリスト教普遍神学の枠組みの中で論じられた。目的論者にとってはそのゴールが善いものだとされる。
つまり、人間という存在にも神によって意図された何らかの「目的」があり、私という存在にも(何かはわからないが)何らかの「目的」があって存在しているということのようだ。
これを信じるならば私が生きる「目的」はあるのだろうし、信じないのであれば「目的」などないのだろうと思う。
そもそも哲学者をもってして、「目的」というものは神という存在がなければ説明がつかないような代物だともいえる。
「目的」があることが当然のように思われている社会に違和感を感じる。
ただ単に「目的がなくてはならない。」と思い込んでいるだけにすぎないようにも思える。
別になくたってよくないか。
私もあなたもここに存在しており、ここに「ある」ということは理解できるが、「何のために」「ある」のかなどということなど誰にも分からないではないか(神が決めてくれているのであれば話は別だが)。
私は、他者を説得するための道具として「目的」を述べるが、時折、本当に「目的」などというものは存在するのか?とも思う。
医療の発展やテクノロジーの進歩なども、「人類の進歩」や「命を救う」といったもっともらしい目的をつけて正当化しているが、では何のためにそれをするのか?
人類という種の保存のため?では、種を保存しなければならないとは誰が決めたのか。
私は、「目的」を持つことを批判したいわけではなく、「目的」を持ちたい時には持ってもいいし、別に「目的」のない行動があったっていいと思っている。
「目的」があると思えばあるだろうし、ないと思えばない。「目的」が欲しいなら勝手に創ればいいし、ないからといって特にどうということもないではないか。他人が口を挟むことではない。
「目的」をもった方が善く生きられる。と思うならそうしてもらってもいいけど、「楽しい」、「ワクワクする」、「知らないことを知りたい」、というだけで行動したっていいし、「やってみたかった」でも別によくない?
なぜみんな、そんなに「目的」を持ちたがるのか。それもとびきり「素晴らしい」目的を持ちたがるのか。
堀江貴文氏が著書の「多動力」で「人生に目的なんてない。今を楽しむことだけが、すべてなのだ。」と言い切っているのを読んで、そんなことを思った。
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