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スポーツが好き

スポーツが好きだ。

「sports」の語源はラテン語の「deportare(デポルターレ)」にさかのぼるとされ、「ある物を別の場所に運び去る」が転じて「憂いを持ち去る」という意味、あるいはportare「荷を担う」の否定形「荷を担わない、働かない」という意味だそうだ。

これが古フランス語の「desporter」「(仕事や義務でない)気晴らしをする、楽しむ」となり、英語の「sport」になったと考えられている。

その原義は現在も保持されているが、意味するものは時代とともに変化し、17世紀 - 18世紀には、sportは新興階級の特権的遊びがある狐狩り等の狩猟を第一に指したらしい。

しかし19世紀に入ると、運動競技による人格形成論が台頭、貴族階級から開放され労働階級による大衆化が進んだ。

また、近代になると統括組織(競技連盟など)によって整備されたルールに則って運営され、試合結果を記録として比較し、その更新をよしとする競技を第一に意味するようになった。

現在は、「プレイ(遊び)の性格を持ち,自己または他者との競争,あるいは自然の障害との対決をふくむ運動」(ICSPE「国際スポーツ・体育評議会」)などと定義されている。(その他にも様々な定義はあるが)

しかし、スポーツが無条件に素晴らしいと述べる人には疑問を感じる。スポーツの何がそれほど素晴らしいのか。もともと「遊び」ではないのか。

そして、そういった時に大抵述べられるのが、「教育的価値」や「平和」である。最近では、スポーツは「教育」であり「ビジネス」であり、人々の繋がりを強くする「平和の象徴」として扱われる。

その楽しさと競技者の美しさが多くの人を惹きつけるために、スポーツは「何か」の手段として使われているだけではないのか。というような気もする。

それらが目的なのではなく、スポーツを全力で楽しんだ先に素晴らしい人格が形成され、平和が構築される。というのが本当ではないのか。

とはいうものの、より多くの人の目に触れ、より多くの人が当たり前のようにスポーツに参加できる環境が整うことはとても喜ばしいことだし、楽しみが増える。楽しむことはよいことだ。

しかし、「スポーツを好きにさせられる」必要はない。

スポーツ庁が中学生のスポーツ嫌いを減らすという主旨の発表をしていたが、嫌いでもいいではないか。色んな人がいるから面白いのに、人の好き嫌いにまで口を挟む必要はない。

それぞれに嫌いなものがあり、それぞれに好きなものがあるだろう。

ということを考えたりする。。。

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