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「普通」を求められるのが嫌い

「普通」って何だろうか。

普通(ふつう)とは、広く通用する状態のこと。普通の『普』は、「あまねく」「広く」を意味する字であるそうだ。

「出る杭は打たれる」「能有る鷹は爪を隠す」という言葉や、宗教史における異端の迫害にも見られるように、社会の中で特別な者や奇異な者は時に袋叩きに遭い、普通であることが求められる。

しかし、普通であることは「ありきたり」「没個性」「長所を持たない」「存在感が小さい」といった意味で捉えられることがある。

時には普通であることを求められ、時には普通であることを蔑まれる。一体どないせーっちゅうのか。

そして、その「広く通用」する状態というのは誰が決めるのだろうか。その基準を決めてくれる人や装置など存在しないではないか。

結局みんなの想像によって形作られたものでしかないのではないか?

では人は何を持って「普通」などという言葉を宣うのか。それぞれの思い込みに過ぎないのに。

ある人の「普通」と、ある人の「普通」は違っていて、普遍的な「普通」など存在しない。単なる共同主観に過ぎないではないか。多くの人が「普通」というものが存在するかのように信じているだけだ。

そして、100人いれば100通りの「普通」があるのではないのか。インターネットやUSBケーブルで直接接続でもしない限り、全く同じということは存在しないだろう。

友人が、「普通であることは何と難しいことだろうか。」と言っていた。

友人にとっての「普通」は、「普通」に結婚をして、「普通」に子供を産んで、「普通」に家を建てて、「普通」に幸せに暮らすことのようであった。

それは「普通」で、「広く通用する」状態なのだろうか?そして、その「普通」を目指さなければいけないのか。

仮に友人の「普通」が一般的に「普通」なことであったとして、それを目指すか否かは自分で決めたらいい。人の頭の中で創られるものである以上、「普通」は現実には存在せず、そして変化する。いちいち構っていたら何もできやしない。

「普通」だからやるのではなくて、「やりたい」からやればいいだろう。「普通」だから手に入れるのではなく、「欲しい」から手に入れればいいだろう。

ということを考えたりもする。。。

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