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キンコン西野、堀江貴文、ひろゆき、落合陽一、武井壮が好き

他者の目を気にせずに自分の知的好奇心や未知との遭遇そのものに熱中している人が好きだ。

堀江さんも好きだし、キンコン西野さんも好きだし、ひろゆきさんも好きだし、落合陽一さんも好きだし、武井壮さんも好きだ。

では彼らに共通していることはなんだろうか?
それは、多くの人が信じる「神話」を信じないことではないかと思う。

ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読んだ。
小さな集団でしか統率が取れなかった人類が、文字を開発した後、神によって授けられた言葉として戒律を石碑に記録した。その戒律を破ることは神に背くことになり、厳罰に処された。

しかし、神という存在を多くの人が信じなければ、戒律はただの文字にすぎない。多くの人々が神の存在を認め合った状態(共同主観)があって、初めてその意味をなす。

では、神は存在するのか?(いることも、いないことも誰にも証明ができないので、答えは出ないとは思うが)

しかし、神という存在や、神にまつわる物語が、人々を統率するために利用されたと考えるのは私だけではないはずだ。そうでなければ、貴族と平民が生まれながらに異なるものであるということや、人種によって根本的な優劣があるということを多くの人に信じさせることは難しい。

一方で、現代人が信じる「幸せ」に関する概念も同様ではないか。
お金持ちになれば「幸せ」になれるという資本主義的な幸福。多くを消費することで「幸せ」になれるという消費主義的な幸福。

未知の体験を多く経験することで「幸せ」になれるというロマン主義的な幸福。

これらは、為政者、資本家、マスメディアなどの、どこかの誰かによって創られた「神話」なのではないか?とも思える。(権力のある者が、既得権益を守るために他者をコントロールしたいと思うのは人間として当然の感覚だろう。)

お金を持てば、消費すれば、多くを経験すれば、「幸せ」になるというのは誰が決めたのか?

誰もが持っている、「稼がなければならない。」「多くを持たなくてはならない。」「多くを経験しなければならない。」「幸せにならなければならない。」という、ごく当たり前とも思える事柄は、果たして誰が決めたのか?
少なくとも、私が生まれる以前から決まっていたし、多くの人は「なぜ」それに従うのかを疑問にも思わないようだ。

私が彼らのことを「好ましい」と最初に感じたのは、古い「神話」に対する私の疑問を代弁しているかのように思えたからかもしれないし、知的好奇心の追求や未知の開拓、可能性の探求そのものが「幸せ」に繋がるという、新たな「神話」を生み出しつつあるように感じたからかもしれない。

もしくは、ただ単に自分と圧倒的に違う彼らに憧れただけかもしれない。

人間の可能性や快楽を探求することそのものが「幸せ」と結びつく。と彼ら自身が述べたことはないかもしれないが、それを彼らから感じ、共同主観として多くの人が信じはじめているように思う。

知的好奇心の探求そのものによって幸福を見出す「知的好奇心主義」

ITの進化によって生み出されるモチベーション格差によって優劣が生まれるとする「モチベーション主義」

信用を数値としてのお金に変換することができるようになった(クラウドファンディング等によって)ことから、信用を集めることを重要視する「信用主義」(各主義のネーミングは思いつき)

のようなものが今後広く一般的になってくるのであろうし、すでにそうなりつつあるのではないかとも思える。

自分も彼らのようにありたいなぁ。。ということを考えたりもする。。。

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