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【海外旅行記_00】 松内、離陸まで

2019年5月4日、深夜。China Eastern 297便はアメリカ・ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に着陸した。機内、楕円形の窓からは、厚めのジャンパーを着た航空整備士の姿が見えた。どうやら、外は寒そうだ。

シートベルトの着用サインが消え、乗客たちは気重(きおも)な表情で立ち上がった。14時間ものフライトだから、無理もない。想定していたが、残念なことに、着陸時の頭には金(カネ)のことしかなかった。『カネだ……とにかくカネを稼がねばならない』。

ボーディング・ブリッジが繋がり、乗客たちは亡霊のように歩きはじめた。僕は、後ろから押し込まれるようにして前に進んだ。深夜だからか。どの窓からも外の様子は鮮明に見えなかった。ただやはり、外は寒そうだった。

厚化粧して語った独立後の勝算

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 遡ること307日前の2018年6月30日。僕はランサーズ株式会社を退職した。インターン時代を含め、4年弱ほどお世話になった、人生ではじめて入社した会社だ。退職の理由はというと「自分もフリーランスに挑戦してみたい」と思ったから。フリーランスのほうが自分の腕と実力次第で収入は上げられるし、時間の自由も効きやすい。時代の変化に合わせ、時どきの豊かさを手に入れるには、独身の今、勝負したほうがいいと判断した。

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 退職の意を会社に伝えたとき、多くの人に「大丈夫か?」と声をかけられた。しかし、その言葉は、僕を会社に引き留めんとする誘導尋問だと思い、僕は自分なりの論理で「いかに勝算があるか」を説明した。他部署のお世話になった人には、退職が決定するまで伝えなかった。なかでも、これまで何度も親身になって相談に乗ってくれた方には、退職の2日前に伝えた。

 「なぜ、事前に相談してくれなかったんだ?」という、憤った表情をされていたが、感情に流されては前に進めなくなると思い、それらに気づきながらも、鈍感なフリをした。カスタマーサポート部で身につけた、ポーカーフェイスで対応を進める僕が、前面に作用していた。

 「大丈夫か?」に対する返答として、「実は副業でお世話になっているクライアントさんが数名いまして……そこから仕事がもらえそうなんですよ!」と答えていた。しかし、今だから言うが、これは嘘だった。会社員を辞め、イチからフリーランスになるという決断が、若者の稚拙な考えと受け取られないように、必死に自己防衛していたに過ぎない。「虚勢」というファンデーションを、これでもかと全身に塗りたくっていた。

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 フリーランスになったらやりたいことのひとつに、「英語力を高める」というものがあった。ただ、英語という言語や、英語を取り巻く欧米文化に興味があったわけではなく、今後の個人の経済力を高めるうえで、英語は重要なピースだと考えたためだ。人口が減少し、国内市場が縮小するなら、海外からも受注できる個人のポテンシャルを開拓するのが得策だと思っていた。

 「会社員(組織人)としての勝利ではなく、個人としての一人勝ちを狙え」。経済系のニュースや資料・統計データをザッピングするように眺めていた僕は、そう結論づけた。英語を上達させるには、強い動機づけが必要だと思った。元来のナマケモノである僕が、無理なく英語を身につけるには、英語圏で生活するのが早いと考えた。そしてそれは、クラウドソーシングを上手に利用すれば、実現可能だと確信していた。僕は候補の国として、「インド」「シンガポール」「オーストラリア」をあげていた。

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 ただ、どの国に行くか決定打に欠け、決めあぐねていた僕は退職後について仲のよかった同僚に話をしてみることにした。すると、その同僚は「ニューヨーク、いいよ」と答えた。彼は大学時代、ニューヨークにある繊維商社でインターン経験があったのだ。同じくして、向かい席に座られていた取締役に、退職の挨拶と今後の意向を伝えるとこちらも「ニューヨーク、いいよ」と答えた。

 「ニューヨークかあ……なんだかカッコイイな。でもきっと、スゲー金かかるんだろうな」。

 最後の全員に向けた挨拶では、「今後はフリーランスになります」とだけ伝え、海外の話は近しい人にしかしなかった。実現しなかったときのことを考えて、保険をかけておこうと思ったのだ。

第一の潜水

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 こうして、僕は晴れてフリーランスになった。いや、目立った仕事があるわけではないので、ニートに近い。とにかく、毎朝の出社・チームのプロジェクトから棚卸しされた自分の業務・あらゆる会社の責任から解放された。出社時間に平然と二度寝することは、初めて味わう不思議な感覚だった。最終出社日、ニューヨークを勧めてくれた取締役とは別の取締役から「フリーランスは一人会社だからね」と声をかけていただいていたことを思い出した。「一人会社」というワードは、しばしば業界で使われていた言葉だ。「一人でも会社ということは、会社同様にミッションやビジョン・行動指針を決めるべきではないか?」と考えた。膨大な時間が生まれた僕は、人生のミッションから改めて考えてみることにした。

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 一つ目の長い潜水だった。せっかくなので、書籍や映像に残っている偉人や知識人の言葉に頼らず、自分の頭でゼロから考えてみることにした。記憶が間違いでなければ、はじめは「圧倒的にお金を稼ぎ、圧倒的にモテる」という、ひどく原始的な欲望と、どこかコンプレックスが滲み出たミッションが、僕から生まれた。しかしながら「これはこれで真理ではないか?」とも思った。今の時代は「生きがい」や「ライフワーク」の価値が増し、露骨に経済力を求めることはダサい、みたいな風潮が広がっていた。にもかかわらず、結婚や出産といったライフステージの変化を機に、転職する人を多く見てきた。その都度、矛盾を感じ、やはり重要なのは経済力なのだなと感じていた。また、後者に関しても、社会や人のあらゆる現象を性愛を軸に観察すると合点がいくものが多いと感じていた。だから、ミッションはこれにしようかと思った。しかし、一眠りしたら強い違和感に襲われた。そもそも、人生を通じたミッションとしては不適切だし、なんとなく直感的に間違いだと思った。そんなこんなで、決めては壊し、決めては壊しを繰り返した。散歩しながら考え、「コレだっ!」と思ったことをスマホにメモする。しかし、どれも時が経つと、不十分な気がした。なんだかこの期間は、自分がひどい厨二病にでも侵されている気分だった。「26にもなって、こんなことしてるなんて」と何度も思った。

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 そして考えは、最終的に「人間が生きていることにたいした意味はない」というところに辿りついた。後になって知ったのだが、僕の感覚は般若心経に書かれている「色即是空 空即是色(しきそくぜくう くうそくぜしき)」や、『嫌われる勇気』で話題となったアルフレッド・アドラーが唱えた考えと似通っていた。が、人生には何か意味があるはずだと信じていた僕は、別の考えを論理的に導こうとしたが、結局はもとに戻り、ここから身動きが取れなくなってしまった。

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 しかし、行き詰まりから少し経った頃に「人間の人生にたいした意味がないのなら、つまり、自分で好き勝手に意味を決めていいということではないか?」と、考え方が変わった。文字に起こすと至極当たり前のようだが、深海から抜け出せずにいた僕にとっては、落雷を落とされたような気づきだった。無意味だからこそ、意味は自由に見出してよかったのだ。

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 この頃には、退職時に支給されたボーナス等による蓄えも減ってきていた。このままではダメだと思い、収入を軌道にのせることを優先し、ミッション・ビジョン・行動指針は気長に考えることにした。そして「本気を出せば、クラウドソーシングで稼ぐなんて簡単だろう」と考えていた。第二の、より深い、深い、潜水が待っているとは思いもしていなかった。

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 退職時のご挨拶で前職の社長から、”ひとつだけアドバイスを送る”と前置きされたうえで「とにかくすぐ動き出せ!」と声をかけていただいていた。「あー、見事に動いてないな。いや、これも動いているうちに入るのか?」と、散歩中の目黒川を見ながら、ふと思いふけった。平成最後の夏は、もう終わろうとしていた。

第二の潜水

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 クレジットカードというものは、図々しいやつだ。支払いなどとうに忘れた頃に「ハイッ!お金徴収しまーす!」と、無言で、口座から金をムシりとっていく。気づいたら、9月末。今にでも収入を増やさなければならなかったが、僕はそれらの義務から逃げるように、渋谷図書館の無数の本やAmazon Primeの映画に没頭し、逃避していた。運がいいのか悪いのか、ちょうど目黒のマンションに契約更新の手紙が届いた。手紙には「もう1年契約するか、解約するかを決めろ」と書かれていた。現実を直視せざる得なかった僕は、家計を事細かに計算してみた。どうやら東京はおろか、賃貸で住むのは困難であるという残酷な数字が並んだ。「実家に、帰るしかないな……。」僕は敗戦国の帰還兵のような気持ちで、手荷物を整理し、8年ぶりに実家に戻ることを決めた。

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 帰省には金がなかったので、深夜の夜行バスで帰った。最安値のバスチケットを購入したためか、座席は狭く、おまけに左隣の乗客は体重100kgくらいの大男。彼は深夜になると裸足になり、足を前に投げ出していたため、身体の窮屈さと汗臭さで眠れたもんじゃなかった。

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 実家は、母の一人暮らしだ。兄は家を出て働いており、父も岡山に単身赴任していた。母には、フリーランスとしての前向きな展望と、仕事は軌道にのってきているという嘘を伝えた。そして、あくまで一時的に実家にお世話になるだけだ、ということを強調して伝えた。そのためか、帰省初日はとても上機嫌にご飯を振舞ってくれた。まあ、8年ぶりに束の間の同居ができる嬉しさもあったのだろう。ちょうどこの頃、高校の同級生の結婚式があった。同じ部活だった僕は参加することにした。数年ぶりに会う同級生たちに囲まれ、近況を話し合った。みな、会社員や公務員などそれぞれの道を進んでいるようだった。そして当然、僕の近況も聞かれた。僕は「フリーで仕事してる」と控えめに答えた。それを聞いた同級生の多くは「スゲー!」と反応した。いつの間にか「松内は稼いでいるらしいから、二次会はご馳走してもらおうぜ!」なんていう話に飛躍していた。僕はヘラヘラと笑って「やめてくれよ。そんなに稼いでないよ〜!」とまんざらでもないような、オドけたリアクションをしてみせた。

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 第二の潜水は、とても苦しかった。このエッセイを書いているのは、2019年6月30日だが、当時を思い返すだけで軽い吐き気がしてくるほどだ。とにかく、一生懸命働いているつもりが、全然稼げなかった。実績がなかったから「なんでも受けてやる」と戦略もひったくれもない仕事の進め方をしていたのだが、時給に換算すると目も当てられないほどだった。会社員時代よりも疲労感はあるのに、月に8万円ほどしか稼げないときもあった。実家にはお世話になる代わりに、月2万円を入れる条件になっていた。また、自分の食費等は自分で賄(まかな)っていたので、金は増えるどころかどんどん減っていった。日に日に生活リズムは崩れていき、自分が荒(すさ)んでいくのがよく分かった。この時期は何時に起き、何を食べていたかあまり覚えていない。昼の2時に起き、早朝まで原稿を書き、疲れたところで寝る。そんな生活だった。気づいたら無数のコーヒーの空き缶が部屋中に転がっていた。

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 ほどなくして、部屋では捗らないので、実家近くのJoyfulというファミレスに入り浸った。12月くらいから、昼夜問わずここにいた。あまりにも毎日、24時間かまわず来店するものだから、店員も訝(いぶか)しそうな表情をしていた。当時の僕はひどく焦っていたので「話かけてくんじゃねーぞ」というオーラを猛烈に撒き散らし、店員を敬遠した。真冬の、特に深夜・早朝のJoyfulはとても寒かった。コンセントがあるのは窓際席だけだったから、店外の冷気が身体に深々(しんしん)と伝わってきた。あまりにも寒いので、深夜の一人しかいない店員に、「暖房……強めていただけませんか?」と要求したが、一向に暖かくはならなかった。だから、靴の中にカイロを入れて仕事をしていた。当初は禁煙席に座っていた僕だったが、いつからか喫煙席に座っていた。

 年越し直前には来年の誕生日(5/3)に、ニューヨークに長期移住することを決めていた。しかし、逆算するととにかく金が足りなかった。その焦燥感とイライラをかき消したいからか、この時期から日に多くのタバコを吸うようになっていた。タバコは詳しくなかったので、前職の先輩が吸っていた黄色のアメスピを吸うことにした。500字書いては1本吸い、資料をリサーチしては1本吸いといった具合に、タバコを吸うことをモチベーションに仕事をしていた。金がなかったから、バニラカフェゼリーとドリンクバーだけ頼む毎日だった。あの時期にあの店でもっともバニラカフェゼリーを食べた人間は、間違いなく僕だと思う。なんせ、毎日いたからだ。あまり覚えていないが、確か大晦日と正月もJoyfulにいた気がする。どの時間にどんな客層の人が来店するのか。喫煙席と禁煙席の客層の違い。そこで、どのような内容の会話がなされているのか、一通りわかるくらいに店にいた。タバコを吸いながら、休憩中に聴く音楽の種類も変わっていった。この頃はよくニルヴァーナを聴いていた。世代ではないが、カート・コバーンの生涯に想いを馳せながら、激しいサウンドを強壮剤がわりにしていた。

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疲れ果てて、深夜3時ごろに店を後にし、帰宅するまでの一路は言葉では言い表せられないくらいの虚無感があった。ああ......思い出すだけでキツいな。地方の深夜の街には、人っ子一人おらず、広い道路を走る車はなく、ただただまっすぐに伸びていた。終着点は見えなかった。

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クリスマスの直前には昔関係をもった女から「近いうちに、もう一度会いたい」と連絡があった。客室乗務員として働いている彼女は、機内で膝を怪我し、現在は休職中なのだそうだ。真剣に付き合おうかと思っていた女性(ヒト)だったので、「ちょうど東京に出張の予定がある」と嘘をつき、なけなしの金でレストランと航空券・宿泊先のホテルを予約した。「来年には渡米するというのに、どういう了見なんだ!」と自分にツッコミを入れたが、彼女も乗り気だったから会おうと思った。しかし、予定日の直前になり、療養のため実家に戻ることになったという理由で、予定はキャンセルになった。ただ、無慈悲に、航空券とホテルのキャンセル代が、口座から消えていった。

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暗く、寒く、息苦しかった。深い潜水の果て、もう息はもたないかもしれないと思いはじめた。一人、深夜に、部屋で飲み過ぎてゴミ箱に吐いたこともあった。実家の母親は、いつからか僕に就職を斡旋するようになっていた。正月には「今のバイトみたいな仕事をいつまで続けるつもりだ!」「フリーランスなんて成功するわけないじゃないの!」と父・母に詰められた。実家に、僕の居場所は無くなっていた。

ふたつの奇跡

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季節は冬を越え、3月に入っていた。外は厚手のコートが不要になってきた頃だったが、僕の状況はいまだに冬真っ只中であった。なかなか水面に浮上できず、もがいていた。この頃には、退職したことを何度も後悔した。「ランサーズ、やめるべきじゃなかったな」と数えきれないほど思っては、タバコの煙で掻き消した。もう白旗を振り、前職に戻るために頭を下げるか、こっそり転職しようかと思った。しかし、元社員である人間がクラウドソーシングでフリーランスとして生きていけないということは、イコール、多くの人にとってフリーランスは現実的な選択肢ではないことを伝えてしまうのと同じだ。「そりゃあ、やっちゃあいけないな」と思い、瀬戸際でKOを拒絶した。ウィラポン戦で後頭部から倒れる辰吉丈一郎のように、最期までファイティングポーズをとろうと思った。

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ただ。現実は冷たく。5/3にニューヨークに行き、その後の家計をまわすには、100万円ほどが足りなかった。

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なにがきっかけだったか。ふと、ランサーズのプロフィールを変えてみようと思った。どこをどういう風に変えたか詳細は覚えていないが、全面的に見直してみたのだ。するとほどなくして、「オウンドメディアの編集責任者を探している」という相談が舞い込んだ。なにやら、これまでと毛色が違ったので、テレビ電話でお話を聞くことにした。「試用期間は3ヶ月で、まずは月40万円からいかがでしょうか?」という内容だった。はじめての月間の固定報酬。しかも肌感から、試用期間後はもっと報酬が高くなりそうな雰囲気が感じられた。僕は「絶対に破談させるわけにはいかない」と、丁寧に、丁寧に、話を進めた。結果。試用期間3ヶ月の月40万円の契約が決まった。4月中頃のことだった。長い潜水の末、ようやく息継ぎができた気分だった。なぜだろうか。その日はJoyfulではなく、少し値の張る、隣のコメダ珈琲店で仕事していた。

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しかしながら、依然として100万円ほどが足りなかった。すでに、アメリカ行きの航空チケットなど諸々の事前費用は支払いを済ませていた。4月末にはこれらの請求が押し寄せてくる。高額バイトとして、大学時代に一度だけしたことのある「治験バイト」を調べてみた。病院に缶詰めにされ、何度も注射されるのはたいへんに参るのだが、金のためならしょうがないと思った。しかし。分かってはいたことだが、時すでに遅く。高額な「治験バイト」をもってしても、金は工面できなかった。もう......詰んだなと思った。航空チケットなど諸々をキャンセルし渡航を諦めるか、別の機関から借金して「借金を借金で返す」というさらに深い潜水をするしかないといったところだった。

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そう、思いつめていたとき。母親が二階の部屋を訪れ、かんぽ生命の養老保険の件について話があると言い出した。聞くと、なにやら祖母が「将来の僕と兄の結婚式用に」と、コツコツ積み立てていた養老保険の金額が満額となったため、指定口座に振り込み手続きをする必要があるとのことだった。金額を聞くと、ちょうど100万円だった。晴天の霹靂だった。祖母は、現在パーキンソン病にかかり、手はおろか自由に歩くことさえままならないくらいに衰えていた。老人ホームに入居し、母と叔母が世話をしていた。思うようにいかない自分の現状と重なり、これ以上ブルーになるのは御免だと思い、実家に帰ってもあまり会ってはいなかった。祖母は、戦時中に幼少期を過ごしたため小卒ではあったが、非常に多趣味で、服を自分で作り販売したり、油絵に打ち込んだり、社交ダンスの大会によく出ていた。それが、僕が幼少期の頃の、祖母の印象だ。今でも実家近くの祖母の家に行けば、無数の油絵作品を見ることができる。両親共働きだったため、中学までは19時くらいまで祖母の家で時間を過ごしていた。多趣味で好奇心旺盛だった祖母からは、学校では習えない多くのことを学んだ気がしている。

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このようなエピソードをもつ祖母と僕だったが、僕の口座に100万円が振り込まれると聞いたとき、一番に胸に去来した感情は、祖母への感謝ではなく、【これで金が足りる】だった。「結婚式用に貯めたお金かもしれないが、”祖母には黙って” 渡航費として使うしかない」。僕はその場で母親にだけ承諾を得て、この100万円を諸々の費用に充てることにした。かくして、4月末の多額の請求難から逃れることができた。

反骨心の犠牲になった父親

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5/3の渡航まで時間はなかった。僕は急ピッチで役所関係の事務手続きを急いだ。「ESTA申請」「医療保険」「国民健康保険」「所得税および確定申告の事前手続き」「携帯の海外用simカード」「住民票の転出届」……など。こちらは事前にロジックを整理していたので、スムーズに進められた。あと、これは非常に覚悟のいる決断だったが、新しいMacBook ProとiPad Pro等のデバイスを購入した。僕のMacBook Airは2013年から使用しており、もうガタがきているのはわかっていた。今後の業務生産性を高めるには必要な投資だと思い、かなりハイスペックな一品を手に入れた。また、自宅の本を電子書籍化して、手荷物をバッグひとつ分に収めたいと考えていたので、iPad Proも同様に手に入れた。そのほか、備品なども合わせ、しめて約50万円ほどとなった。これで、クレカ一括払いで支払いを行なうには、渡米初月に最低でも50万円は稼がなければならなくなった。

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100万円が工面できてから、あっという間に5/3を迎えた。そのため、たいして感傷に浸ることもなく、ニューヨーク情報を調べることもなく、渡航当日、僕は一人で福岡空港へ向かった。帰省していた父親が「空港まで送ろうか?」と声をかけてきたが、「いや、一人で行くよ」とそれを拒否した。その声には「空港まで見送りたい」という感情が滲み出ていたが、「正月にあれだけ否定されたら、そう易々(やすやす)と乗りたくはないね」と思い、父の気持ちに自覚的でありながら、間髪入れずに家を出た。家を出た直後、「正月の叱責は、君のことを心配してたからこそでしょうが」と、良心的な自分の声もしたが、ここで突っぱねて反骨心を膨らませておかないと、ニューヨークでやっていけそうにない気がした。だから僕は、そのままバス停に向かった。

束の間の解放と浮遊感、そして願い

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福岡空港には12:00頃に着いた。17:15にトランジット先である上海浦東国際空港(PVG)に向け飛び立つ予定だったので、5時間も早い到着だった。なぜ、こんなにも早く到着したのかというと、きっと空港で作業したほうが仕事が捗るだろうと思ったのと、ヘンに実家に長居して、家族と話さなければならないのが苦痛だったからだ。

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普段、自撮りなど滅多にしない僕だが、今回ばかりは記念なので写真を撮ることにした。空港の、充電ができるスタンディングデスクのようなところに、購入したてのiPad Proを立てかけ、インカメラで撮影した。こういうのは慣れていないので、周囲からどう見られているのだろうかと恥ずかしくなった。

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今になって写真を見返してみると、これから海外に飛び立つというのに、まったく笑っていないな(笑)。どこか、カメラの先にいる、この写真を今後見るであろう人(つまり読者の皆さん)たち大勢に、敵意を示しているようにも見える。まあ、これはこれで、当時の心境を素直に表しているのか......。

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諸々の搭乗手続きを済ませ、ようやく機内に乗り込む時間となった。ボーディング・ブリッジ手前のゲートで、僕のチケットを見た中国東方航空のスタッフさんから「お誕生日おめでとうございます! つまらない物ですが、どうぞ」と、誕生日記念にノートとペンをいただいた。

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「確かに、つまらない物だな」と内心思ったが、久しぶりに人に気にかけてもらった感じがして、随分と嬉しかった。と同時に「孤独だったんだな」と、自分の素直な心境に少しばかりヘコんだ。座席に座ると、すぐにiPhoneを機内モードにした。第二の潜水期に、SNSで知人の活動や活躍を見ては、自分の置かれている状況と比較し、ずっとやるせない気持ちを抱えていた。そういった負の靄(もや)を、徹頭徹尾、遮断したいと思っていたのだ。次に、僕は購入したてのiPad Proを起動させ、読みかけていた小説『アルジャーノンに花束を』をKindleで開いた。「ゆっくり、休み休み読んでも、ニューヨークまでには読み終わりそうだな」と、残りのページ数を確認し、焦らずにじっくり読むことを決めた。

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ほどなくして、機体のエンジンは徐々にうなり声をあげていった。エンジンの振動が座席からお尻に伝ってくるのが感じられた。重い機体は、動き出したかと思うと、一瞬にして最高速度に達した。きっと、ものすごい回転数でタイヤはまわっているのだろうと、見えない機体部分を想像した。

(心の内)「さあ。行け!行け!!行け!!!行け!!!!行けーー!!!!!」。機体に自分を、重ねた。

タイヤが地面から離れたことが、独特の浮遊感から分かった。あっという間にして、福岡の街はジオラマのミニチュア模型のようになり、やがて雲を突き抜け、超えていった。雲を突き抜けた様子をすぐ右の楕円形の窓から見つめていた僕は、「金の不安といくつかの罪悪感を、日本に置き去りにしてくれ」と、どこの、誰に向かってか分からないが......願った。

▼ 筆者あとがき

まずは、こんな長文エッセイを読んでくださり、ありがとうございます。あの……長かったですよね、すみません。まずはじめに、簡単に自己紹介をさせていただきますね。私は現在、ランサーズを使って仕事しながら、アメリカ・ニューヨークで暮らしている松内と申します。職業はライターが軸ですが、Webマーケティングに関する業務もいくつか担当させていただいております。

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当初は渡航初日からの様子を、旅の備忘録も兼ねてエッセイとして綴っていこうかと考えていたのですが、前職を退職してからもいろいろあったなーと思い、第一弾は退職から渡航日までを描くことにしました。起きたことに忠実に素直に描いていくことを意識したのですが、ずいぶんと暗く、そしてお金のことばかり考えている文章となってしまいました(トホホ)。まあ、これはこれで僕の素直な心情なのかなと思い、掲載の判断を下しました。

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当エッセイは週刊連載として、日本時間の毎週月曜9:00ごろにnoteに掲載し、各SNSでシェアする方向で考えています。コンセプトは「僕が触れたこと、考えたこと、感じたことを素直に書く」です。なるべく飾らず、カッコつけず、素直なエッセイをお届けしたいと思っています。次週は『トランジット先の上海で起きた出来事について』です。急いで出国した僕は、トラブルに巻き込まれてしまうわけですねー。乞うご期待!


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