僕たちは「未来への希望」を持ち続けられるだろうか?

フィリピンで感じるデジャヴ
仕事でフィリピンに行くたびに、僕はいつもちょっとしたデジャヴ感覚に襲われる。路肩に散乱したゴミ、所々陥没した舗装、ちょっと雨が降るとすぐに冠水する幹線道路。慢性的な渋滞に、排ガスで汚れ切った空気。道端で立ちションする大人の姿。どれもこれも「今」の基準からすると「ありえない!」のだが、これらはまさしく、僕の記憶に刻まれた「昭和」そのものだ。

すべてがテキトーだった昭和
昭和に生まれ育った僕にとって、昭和は「古き良き時代」としか言いようがない。すべてのことが今では考えられないほどテキトーで、実にシンプルでのどかだった。電話はまだダイヤル式で、音楽と言えばレコードとカセットテープしかなかった。日本中が「8時だよ全員集合!」とか「ザ・ベストテン」とかプロレス中継などといった、同じテレビ番組を同じ時間に見ていたのだ。

インフラはまだしょぼく、ちょっと雨が降ると川が氾濫し街中が冠水した。トイレは汲み取り式の方がはるかに多かった。舗装していない道はたくさんあったし、してあっても舗装が陥没し、大きな水溜りになっているところが無数にあった。道路はいつも渋滞しており、バスが遅れるのは当たり前だった。

モラルも笑ってしまうくらい低かった。おっさんたちは道端で堂々と立ちションをしていたし、空き缶がそこいら中に落ちてた。大人たちは目の前に子供がいても堂々とタバコを吸っていたし、排ガスは大きな社会問題になりつつあったが、対策は遅々として進まず、夏の暑い日には光化学スモッグで子供達がバタバタと倒れた。交通事故死亡者数は1万6千人を超える年さえあったが、こちらも対策はなかなか進まなかった。そう言えば、にっかつロマンポルノのヌードポスターがバス停の目の前に堂々と貼られていたっけ。子供への悪影響なんて誰も考えていなかった。

計画的な未来への投資
当時の日本は今のフィリピンのとこなんてまったく笑えないくらい遅れていたのだが、その一方で当時の日本とフィリピンとでは、何か決定的に異なっている。そしてこの違いをごく大雑把にまとめるとすると、それは「未来への希望」というところに集約できる気がする。

例を挙げよう。
フィリピンは日本の援助なしにはインフラ整備を進めることができない。前述の通りちょっと大雨が降ればたちまち町中が冠水してしまうのだが、誰もがこれを「しかたがないこと」として受け入れてしまっている。公害も公共交通機関の欠如も麻薬の蔓延も同じことだ。誰も自ら手を打とうとはしない。このような傾向は職場でも見られる。ちょっと不満なことがあるとすぐさま転職してしまう。自らイニシアチブをとり、自分たちの手で改善を図るというところに気持ちが回っていかないようなのだ。

セブ島はここ2年ほどで下水の整備が大幅に進み、ようやく冠水が目に見えて減ってきたが、これは全て日本の援助のものだ。次は廃棄物処理に手をつけるようだが、こちらもまた日本の援助によって行われる。一方、今のところ日本が援助していないインフラはそのまま放置状態にある。公共の交通機関がその例としてあげられるだろう。なぜフィリピンは自分たち主導でインフラ整備を進めていくことができないのだろうか? フィリピン経済はここ十数年間に渡ってずっと5〜7%の経済成長を続けているというのに。

一方、かつて貧しかった昭和日本は同じような経済状態だった頃に何をしたかというと、新幹線や高速道路といったインフラの整備を計画的に推し進めたのだ。そして50年経った今、日本は別の国と言ってもいいくらい整った国になっている。

なにがこのメンタリティの違いを生んでいるのだろう? 思い当たることが一つある。それはフィリピンでの「未来への希望」の持ちにくさだ。例えば、この国の汚職や麻薬汚染は想像できないくらい酷い。昭和日本にだって総理大臣みずから逮捕されるくらい汚職がひどかったのだが、それよりもまださらにずっと深刻なのだ。警察や消防といった役所さえ半ば公然と賄賂を受け取る。この地でモノを言うのは金とコネなのだ。これでは「しかたがない」と諦めてしまうのがたくさんいるのを、あながち責めることなどできない。

また、麻薬の売買も白昼堂々と行われている。こうした汚職や麻薬汚染に憤る人は多いが、政治家から有効な対策が打ち出される事はほとんどない。これでは未来に希望を託すよりも、今日を楽しくすごくことに集中した方が、精神の安定が図れるだろう。

希望がないわけではない
ではフィリピンには希望もないのかと言うと、そんなことはない。2016年にドゥテルテ大統領に選出されて以来、風向きが確かに変わってきたのだ。彼のやり方は問題点が多いが、フィリピンの体感治安が向上したことは素直に認めざるを得ない。麻薬の売人が街から姿を消し、役所が賄賂を暗黙のうちに要求しなくなり、タクシーの運転手がお釣りをちょろまかすこともずいぶん減った。ドゥテルテ大統領の民主主義のプロセスをないがしろにするアプローチは好きになれないが、彼がフィリピンを変え始めているのは否定できない事実だ。

フィリピンが近代国家の仲間入りをするまでには、まだ長い年月を要するだろう。ドゥテルテが大統領の任期を終えたら、元に戻ってしまう可能性も否めない。楽観視は決してできないが、一度慣れ親しんだ秩序を手放したくない人も確実に増えるだろう。もしかすると、「未来への希望」が確実に人々の心に宿るかもしれないのだ。

日本はどうなるんだろうか?
では一方の日本はどうなるんだろうか? なんだか以前よりも「未来への希望」が減ってしまい、なんでも「しかたがない」と諦める人が増えてしまったような気がする。IT化ではすっかり世界に取り残されてしまったのに、かつてのような「追いつけ追い越せ」という気概もない。二言目には日本特殊論や日本賛美が繰り返され、未来よりも今よりも、過去の栄光の方が大切になってしまったかのようだ。

「未来への希望」が持てないというのは、決して好ましい状態ではない。このままでは自分たちで変われなくなってしまうだろう。そして一度そうなってしまうと、おそらく抜け出すのに数百年を要するのだ。

だから簡単に希望を捨ててはいけない。誰もが未来に希望を抱ける社会。それを作っていくことこそが、今日本が取り組むべき仕事なんじゃないだろうか?


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松井博

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