感情的にならないこと

不妊治療を再開した。

新しく行くことにした病院は、産科といっしょになっているので、妊婦さんや赤ちゃんを抱いたお母さんと同じ待合室にいることになる。

つらいだろうか。そう思ったが、以前に通っていた不妊治療専門の病院の、あのどんよりとした雰囲気に比べれば、はるかにマシであった。

昔から自分は、他人の発するストレスのオーラに敏感だったように思う。ストレスがある人は機嫌が悪い。機嫌の悪い人は苦手だ。不妊治療の待合室には、機嫌の悪い人が多かった。気持ちはわからなくもないが。

ただ、妊娠・出産・育児だってハッピーなことばかりではないだろう。ここにいる人は、おおむね明るい表情をしていたが、なかにはイライラした様子のお母さんもいた。特に、小さな子どもを連れた人だ。お腹のなかに妹だか弟がいるなどと言われても、当然ピンとはこないだろう。しかし、このただならぬ雰囲気は本能的に理解できる。そしてたいていの子どもは病院が嫌いだ。だから意味もなく泣き叫ぶ。母親は苛立つ。

親子が発するストレスは、私の心をちくちくと刺激した。

そんなにイライラしなくてもいいじゃないか、子どもができたのだから。

思ってからハッとする。私は無意識に理想の母親像を押し付けていた。

子どもがいるのだから、もっと幸せそうにしたらいいのに、と。

私は夫の連れ子を育てている。だから子育てのつらさを少しはわかっているつもりだ。子どもは理不尽である。それは何度も身をもって経験したことだ。幸せと苛立ちは、交互にやってくる。それはきっと、血のつながりによらない。親子でもきょうだいでも夫婦でも、同じことだと思っている。

それなのに、とっさに私はそう思ったのだ。

不妊治療をしていると、こんなふうに感情的になってしまう。これが、不妊治療のつらいところだと思う。自分の、一番醜いところ(でもきっとこれは本音なのだ)と向き合わざるをえなくなる。

私は子宮内膜症を患っているので、もう二十代のころには「子どもができにくい可能性がある」と言われていた。時々思う。

もし、子どもができないと言われなかったら、こんなに子どもを欲しいと思わなかっただろうか?

それはわからない。

ただひとつ言えるのは、そんなことを思うことも感情的になっているということだ。

不妊の原因は身体的な問題で、もっとも感情から遠いところにある。それを忘れないようにしようと思う。

悲劇の物語に酔うことは無意味だ。



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