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「感化された」とき、自分は何を取り込んだのだろうか?

「感化」とは
ものの考え方や生き方などを、強制したりすることなく、自然に相手に共感させて影響を与えること。

精選版 日本国語大辞典(コトバンク)

多くの”影響”を受けてきたけれど…

自分自身が”誰かや何か”から影響を受けたことは数知れず。
とにかく、たくさんの影響を受けてきた。
いわば「感化された」わけだ。

しかし、いざ振り返ってみると…。

その時の何に影響を受け、何を自分の中に取り込んだのかはよくわからない
きっとこうだと分析することはできるのだけれど。
なんだかしっくりこない。

確実に”影響”を受けたはずなのに…

何を取り込んだのだろう…。
「感化」の言葉の意味から考えると、「自然と」であるから、気づいたときにはもう既に取り込んでいたことになる。
だから、気づいたときには既に、自分に何らかの変化が生じていたことになる。

「あっ!今だ!」を知りたい。

自分に変化が生じたことを認識した後に、変化が生じる前には戻れない。
かといって、変化が生じたことを認識していなければ、変化が生じていないのと一緒だ。
明らかに自分の人生や思考に変化を与える衝撃的なできごとがあれば何かしらの気づきがあるのかもしれないが、「感化された」場合には、変化に気づいたときにはもう変化している
うーん。

誰から、何から影響を受けたということはわかるのだけれど…

その人の…
その何かの…

「何」を自分が取り込んだのか?

なぜだかわからないけれど、西田幾多郎の「純粋経験」がぱっと浮かんできた。

そんそんさんの記事に「感化されていた」のではないか…
そんそんさんの記事を読んだとき、ハッとなったことを思い出した。

私自身、西田幾多郎の「純粋経験」という考え方が好きだ。

「感化された」とき、自分の中にあった何かと結びつくことで、取り込んだのだろうか?

今日も新しい気づきをありがとうございました。


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