映画「若おかみは小学生」と無邪気さの共同体

 初めに書いておくと、私はこの映画を好きになれなかった。というより、嫌いだと感じた。映画を見て「つまらない」と感じることはままあるが、はっきり「嫌い」と感じることは多くない。ここから先の文章は、本作を嫌いだと感じた人間の立場から書かれたものだ。言葉激しく非難するような表現は慎んでいるつもりだけれど、例えばこの映画が好きで仕方がない人などは読まない方が良いかもしれない、ということは一応の逃げ道として書いておく。

・おっこの恐怖と生存戦略
 映画は恐怖と共に始まる。高速道路で家族を襲った突然の事故が、残酷なほどのリアリティを持って描かれるが、その後場面はいきなり飛んで、独りぼっちになったおっこが家を出るシーンに移る。先に述べておくと、この映画ではこの手の省略技法が頻発する。短い尺のなかで物語を進めるため、説明的なシーンの多くが削られるし、ある人物の問いかけに関する答えが削られ、宙に浮いたまま終わることもある。涙ぐましいこれらの努力には目を見張るものがあるけれど、ここで重要なのは、「何を削り、何を残したか」という選択の問題である。
 映画はおっこの恐怖に焦点を置く一方で彼女の悲しみや寂しさからは距離を置く。ショッキングな事故の場面を鮮明に描きながらも、その後にやってくるはずの悲しみ(典型としては葬儀)の場面が削られているのはその表れだろう。彼女の寂しさが描かれているのは主に冒頭の二つの場面、たった一人で家を出るシーンとその後の電車で窓に映る別の家族を見つめるシーンに限られており、トンネルを抜けて窓に映った家族が消えるとともに(入れ替わりで馴染みのない山並みが映る)、それらは脇に置かれることとなる。
 おっこはまた、未知の世界である春の屋旅館に対しても恐怖や不安を感じている。彼女は一人で旅館にやって来るが、そこで大きな蜘蛛に遭遇し恐怖のあまり悲鳴を上げる。これは無論、おっこが都会育ちであることを意味しているのだが、同時にここで彼女が抱いている感情が恐怖や不安であることも示している。旅館の住人たちにとっては慣れっこで、一員とさえ呼べる存在を、けれどこの場面のおっこは恐れているのだ。
 旅館で暮らすことになった彼女は「若女将」としての修行を始めることになるのだが、それは旅館に住み着いた幽霊のウリ坊に懇願されたからに他ならない。(それもはっきりと意思表示をしたわけではなく、半ば巻き込まれた格好で)。彼女が若女将を目指すこの場面は議論を呼んでいるが、個人的には良くできていると思う。おっこが自発的に若おかみを志す、という展開はここでは不可能だし、映画の趣旨とも合致しない。(本作のメッセージは自己実現ではなく「置かれた場所で咲きなさい」なので)。他方、旅館の人間が彼女に頼み込むという展開も難しい。もう少し尺があれば別だろうが、両親を亡くした少女に待ってましたとばかり自分の希望を押し付ける悪人として、旅館の人々を描くわけにはいかない。そうであれば、旅館の人間であって人間ではない(かつ、おっこの恩人である)幽霊のウリ坊を使うしかない。
 そしてまた、これが重要なことなのだが、おっこは不本意ながらもウリ坊の頼みを聞き入れることで、彼に「貸しを作る」。やや性格の悪い言い方をするならば、彼女は他人に貸しを作ることで、未知の世界での不安を鎮め、心の安定を図ろうとする。悪戯ばかりしていた美緒をあっさりと許し旅館に置くのも、つまみ食いばかりしているヘンテコな鬼の封印を解いてやるのも同じ理屈だ。彼らは皆、温泉街の共同体からはみ出し、ほとんど排除されかけた存在であり、つまりはおっこ同様に弱い立場にある。おっこは「若おかみ」として共同体へ参入するための訓練を受ける一方で、彼らに貸しを作り、そうすることである種の拠り所を確保していく。
 彼女の立場に立って考えればこれは当然のことで、両親を失い祖母に「引き取られた」おっこは、極めて弱い立場に置かれている。誰からも心配され、同情され、気を遣われるという状況は(彼女にとって)ひどく危うい。自分の存在が他者の善意によって支えられているということは、言い換えれば他者の気まぐれ一つで全てを失いかねないということであるからだ。彼女が他者に対して過剰なまでのやさしさ、気遣いを見せるのは、もちろん彼女の性格もあるが、それだけではない。他者に対し「貸しを作る」、もっと嫌な言い方をすれば恩を売ることで不安定な自分の立場を支えようとする、ある種の打算がそこにはある。というより、そうせずにはいられないのだ。いつかまた見捨てられ、一人ぼっちになるのではないかという不安が、彼女を駆り立て続けているのである。

・虫の死骸と幽霊と
 旅館の仕事を手伝い始めたおっこは、露天風呂の掃除をしている途中で浮いている虫の死骸を見つける。彼女は嫌そうな顔でそれをすくい、拒絶の眼差しで見つめながらも幽霊に注意されて嫌々手を合わせる。この場面では二つの論理がおそらくは働いている。第一の論理は、旅館で働く者としての労働の論理である。当然だが、温泉に浮いている虫の死骸は捨てなければならない。「おもてなし」の場に、死の匂いがあってはいけないからだ。虫の死骸は気持ちの悪いものであり、気持ちの悪いものは排除しなければならない。第二の論理はおっこ自身の内面に基づいている。彼女は暗黙のうちに死を拒絶しており、両親が死んだということさえ本当の意味では認めていない。おっこは自身の世界から、死の存在を徹底して排除しようと(無意識のうちに)試みている。
 危ういのは、死を拒絶するという第二の論理が、「おもてなし」という第一の論理によって覆い隠され、あっさりと肯定されてしまうことだ。おっこは死の匂いを拒絶し、死を「なかったこと」にしようとするが、それはまさに旅館で働く若おかみとして「正しい」ことである。もっと言うならば、彼女が両親の死を信じず、あたかも「なかったこと」であるかのように振舞うことは旅館にとって都合が良いのだ。
 虫の死骸をめぐるこれらの論理は、ウリ坊をはじめとする幽霊たちと(表に出ることはないが)対立する。ウリ坊も美緒も幽霊であり、どちらかと言えば生ではなく死の側に近い存在である。だからこそ、彼は旅館の女将とは逆に、死んでしまった蛾の側に立つ。(手ぐらい合わせたれ、と言って)。そもそも、なぜおっこに幽霊が見えるのかと言えば、彼女が一度死に直面した人間だからである。おっこ自身もまた、死の世界に近しい存在なのだ。彼女は生者の世界(お客様を死骸の浮いたお湯に浸からせる気かい?)と死者の世界(手くらい合わせたれや)との間に立ちながら、段々と死者の世界を否定していく。「若おかみ」としての論理に回収され、自身の傷痕から目を逸らすことによって。
 映画の終盤で、幽霊たちが唐突に成仏してしまうのはこのためである。いささか唐突に告げられるこのタイムリミットは、主に二つの理由によって支えられている。
 第一の理由は、先ほども書いたように、彼女が死者の世界を否定し、生者の論理に回収され始めたことによる。おっこは若おかみとして次第に成長していき、学校でも友達を作り、表面上は心の傷も癒えていく。彼女自身がそのことを強く望んでいる以上、幽霊たちにはそれを引き留める術がない。(それはまた、彼らの望みでもある)。だが、彼女が生者の世界にどっぷりと浸かるほど、死者の世界からは離れていく。
 第二の理由は、ウリ坊や美緒との別れがおっこの成長に必要不可欠のものだから(というが本作の作り手側が必要不可欠のものとして描いているから)である。物語の中盤、グローリー・水領が車の中でウリ坊たちのぬいぐるみを握りしめたおっこに向かって言う。「そんなに強く握ったら可哀相よ」と。これはもちろん、おっこが幽霊たちを束縛し、成仏を妨げていることの暗示なのだが、問題はこの理解が間違っているということである。ウリ坊も美緒も、おっこに対する未練から幽霊になったわけではない。ウリ坊が執着しているのは彼女の祖母だし、美緒が執着しているのは妹の真月だ。二人とも、おっこのことは好きだしいつも傍にいるが、事実として、別に彼女が二人を束縛しているわけではない。
 だが、これをおっこの物語として見た場合は話が異なる。先に述べたようにおっこは二人に「貸しを作り」そのことによって彼らを心の拠り所にしているフシがある。この点から見れば、おっこが二人を束縛していると言えなくはない。(あくまで、彼女の内面的な問題として)。そしてまた、彼らは幽霊であり、温泉街の共同体からは片足をはみ出したはぐれ者でもある。彼女が一人前の人間として成長し、「若おかみ」として共同体の一員となるためには、幽霊たちへの「依存」から卒業する必要がある、と本作は考えるのだ。
 だが、これら二つの理由はあくまで、「おっこに幽霊が見えなくなる」理由である。正直言って、彼女が幽霊を見れなくなる展開までは想像通りだったが、その理由が彼女の内面の問題ではなく、あくまで二人の成仏の問題として描かれたことは意外だった。結局のところ、二人の幽霊にとって成仏する理由は何もないからだ。(だからこそ、彼らの成仏は彼ら自身にも唐突な、受け容れるしかない宿命として描かれる)。
 「おっこに幽霊が見えなくなる」だけでなく二人の幽霊を半ば無理やり成仏させたのは、おそらく作劇上の理由だろう。幽霊との別れは物語的に不可避だが、ではその結末をいかにして描くのか。ウリ坊たちの姿が見えなくなったことを受け入れたまま、おっこが前に進んでいくという結末は難しい。(ウリ坊たちをおっこが見捨てたようにも見えてしまう)。だからと言って、本作がおっこの「成長」を描くことを使命にしている以上、ウリ坊たちにただ再会して終わるという結末も不可能だ。だからこそ、彼らは成仏する。物語の結末にカタルシスをもたらすために。これは純粋に作劇上の都合であり、彼らの内面はないがしろにされたままであるが、物語の主眼が「人生の理不尽を受け入れる」ことに置かれていることにより、それさえも何だか良い話のように見えてしまう。
何より問題なのは、このことによって、物語そのものが幽霊たちの存在を否定してしまうことである。おっこが成長を強いられるように、幽霊たちもまた成仏し、生まれ変わることを強いられる。生者と死者、人と物の怪が共存した優しい世界を描いているように見せながら、実のところ、この作品は死者たちを、幽霊たちを否定する。生前の未練にとらわれた「後ろ向き」な存在たちを、前向きな物語が救ってやらねばならないというそれは、絶望的な無邪気さに他ならない。
 
・「わたしは若おかみです」
 物語を通じて、おっこは両親の死を乗り越え、成長する。それはもっとも基本的な物語の骨子だが、彼女がどう成長したのか、何を乗り越えたのかという点については、不明瞭な点が多い。
 最初に書いたように、本作の物語が焦点を当てているのはおっこの「恐怖」である。中盤、水領の車で事故のことを思い出し過呼吸になる場面でも、終盤で事故を引き起こしたドライバーの前でパニックになる場面でも、一貫して彼女の抱える恐怖にスポットが当たる。一見元気に見える彼女の心の底で、彼女を突き動かしている感情は「一人ぼっちになるという恐怖」なのだと、映画は描こうとする。「悲しみ」は癒すものだが「恐怖」は乗り越えるものであり、そして本作は後者に重きを置くからだ。だが、寂しさを恐怖に、孤独を試練に置き換えてしまうことで失われるものに対して、映画はあまりに鈍感だ。
 これは、「たった十歳の少女にこんな悲劇を乗り越えさせるなんてあんまりだ」というパターナリズム的な問題ではない。そうではなく、両親の死という悲劇と、そこから生まれる諸々の感情を「試練」として描き、それを「乗り越える」「乗り越えられない」の話に還元してしまう物語の貧しさの問題である。
 似たような話の筋を持つ『思い出のマーニー』という映画があるが、この作品でも主人公は実の親を失い、「自分は孤独なのだ」という強迫観念にとらわれて生きている。この「マーニー」において主人公を本当に癒すのは愛でも友情でもなく、他者の孤独である。誰もが心のうちに孤独を抱えていることを、円の外側と内側など本当はないことを彼女は知り、そうして初めて自分の孤独を許しながら他者と接することができるようになる。
 一方、本作はそうではない。春の屋の世界では反対に、生者は誰も孤独ではないのだ。(一方、死者は孤独である)。誰もが誰かを思いやり、気遣い、そして寄り添っている。そうした円の「外」からやって来た彼女が「中」に入り、共同体の一員になること。そのことによって、孤独という恐怖を乗り越えていくことを、映画は彼女の「成長」として描こうとする。
 だが、本当にそうなのか。最後の客人をめぐる物語のなかで、彼女の成長を示すものとして具体的に描かれていたものは何だったのか。物語の最後に旅館を訪れたのは、彼女の両親を奪った事故を起こした運転手と、その家族であった。そのことを知った彼女はパニックになり、旅館を飛び出してしまうが、やがて自分の意思で戻って来る。この一連の流れは、最初の客人である茜さんとのやり取りを、おそらくは反復している。
 ふてくされたような茜さんの態度にカチンときたおっこは思わず彼を怒鳴りつけてしまうのだが、それは彼女が自分と同じものを彼の中に見ているからだ。彼に向けた叱咤の言葉は、無論彼女自身にも向けられている。この場面における彼女は自分と茜さんを混同しているし、若おかみと客人という立場も無視している。祖母に叱られ、自分で謝りにいくよう促されても従わない。結局、祖母に引っ張られる形でしぶしぶ頭を下げるのだが、この時点ではまだ、彼女のなかに怒りの感情は残っているし、「若おかみ」ではなく「おっこ」としての自己が勝っている。
 しかし、最後の客人、両親を死なせた張本人を前にしたおっこの前に、もう怒りはない。彼女の中に残っているのは両親の死と向き合ったことによる恐怖だけだ。その恐怖さえも、彼女は乗り越え、自分の意思によって戻って来る。「わたしは織子ではなく若おかみだ」という否認の素振りによって。ここにはもう「おっこ」はいない。彼女は自分を(殺したという自覚さえないほどに)殺しきり、「若おかみ」という共同体での役割に徹することに成功する。これは祖母に叱られてしぶしぶ頭を下げていた頃と比較することで、唯一はっきりと描かれている彼女の成長である。(ちなみに、この直前に描かれている真月とのエピソードも同様である。彼女は旅館の従業員として、己のプライドを捨て、真月に頭を下げる)。物語の結末を飾る彼女の成長とは要するに、共同体の成員としての「滅私」の完成なのだ。(映画がおっこの滅私を目指していることは、圧倒的な作画にも関わらずおっこの身体性が希薄であること──食事をしたり、入浴したり、疲れからふと手が止まったり、夏の暑さに汗をかいたり、体調を崩して寝込んだりすることがほとんどないこと──と無関係ではないだろう)。
 唯一の救いは、最後の場面でおっこを助けにくる人物が、グローリー・水領であることだろう。彼女はこの映画のなかでただ一人、癒しと再生の儀式を通過した人物である。彼女が登場する最初の場面で、おっこが戸を開けると大量の煙が真っ暗な部屋の中から溢れ出してくる。露骨に練炭自殺を連想させるこのシーンが意味しているように、彼女は最初、死の世界に沈みかかった存在として描かれている。温泉に頭まで浸かり、再び浮かび上がってくる一連のシーンは、彼女が癒され、生まれ変わった存在として再生したことを意味しているのだが(おっこ自身が温泉に入るシーンが一度もないのとは対照的だ)、ここでおっこが果たす役割は、茜さんの時と違って控えめなものだ。
 水領は、決しておっこの「おもてなし」に、その「奉仕の心」に胸を打たれたわけではない。むしろ逆である。彼女は自分こそがおっこをもてなし、励まそうとする。自分を殺し、そうすることで身を守ろうとしているおっこの自我を、彼女は救おうとするのだ。まさにそうすることで、彼女は癒され、救われる。結局のところ、彼女を苦しめていたものは、自分は愛した男にさえ何もしてやらなかったという後悔と罪悪感なのだから。
 だから、水領とおっこには重なるところがある。おっこにはまだわからないだろうが、水領はそのことに気づいている。水領がおっこの手を取り、暗闇のなかから出てくることができたのは、差し伸べられた彼女の手に自分と同じ恐怖と孤独を、張り詰めたような必死さを見て取ったからだ。だから、彼女は自分と重なるその少女を救うことで、自分も救われる。年の離れた友達という言葉が意味する通り、水領を救ったのは「若おかみ」ではなく「おっこ」なのだ。
 「小学生が若おかみだなんて、お客さんが気を遣うわ」という真月の言葉は正しい。彼女は、おっこがどれだけ完璧なおもてなしをしようとも、「若おかみ」であろうとしても、子供である以上はそうなれないことを見抜いている。宿泊客は「若おかみ」のなかにどうしても小さな少女の姿を見てしまうし、そうである以上従業員と宿泊客という互いの役割に徹しきれなくなる。それは正しい。真月が理解していないのは、まさに子供相手に「気を遣う」ことによって特別な絆が生まれ、救われたり癒されたりする人間がいるという事実である。(もっとも、その是非には疑問の余地があるのだが)。
 これは実のところ、茜さんの場合も同じことが言える。彼がおっこに救われたのは、若おかみの献身的な努力に胸を打たれたからではなく、おっこがおっこだから、自分と同じ境遇の少女だからである。(どいつもこいつも同情しやがる、という吐き捨てるような彼の言葉からわかるように、彼を救うきっかけとなったのは、おっこの献身というよりは、むしろ剥き出しの怒りであり、敵意なのだ)。
 おっこは孤独の恐怖に突き動かされる形で、若おかみとしての職務に没頭していく。自分を殺し、他者に奉仕することで居場所を得ようとする。彼女が未熟な自己を捨て、「若おかみ」に同一化することを映画は成長として描こうとするが、客人たちとのエピソードが示しているのは、むしろ逆のことだ。彼らを救ったのは「若おかみ」ではなく「おっこ」なのであり、彼らが感謝しているのも、大切に思っているのも「おっこ」なのだ。彼女は決して完璧な「若おかみ」ではないが、まさにその半端さゆえに、そこから零れたものを通じて、傷ついた他者と繋がることができる。
 だからこそ、最後の場面で彼女を支えたのが水領であったことには意味があるのだ。水領の友達は「おっこ」であり、だから貴女は、「おっこ」は一人ではないのだとそう伝えることができるのだから。
 だが、映画はその道を選ばない。「わたしは、春の屋の若おかみです」とおっこは言う。もしもこれが、「わたしは織子ではなくおっこです」という言葉であれば、まだ納得もできた。「おっこ」という呼び名は、彼女が失った両親の残した呼び名であり、かつての少女と、春の屋の若おかみを繋ぐものであるからだ。(春の屋にやって来たお客たちは、彼女のことを若おかみではなくおっこと呼ぶ。あなたがおっこちゃんね?と)。
 「おっこ」には怒りがあり、寂しさがあり、孤独があり、恐怖がある。もしも彼女がそれらの感情を全て受け入れたうえで、なおも自分は春の屋の「おっこ」だ、と決意するのであれば、それを彼女の成長と呼ぶこともできただろう。だが、映画はおっこに「おっこ」を捨てさせる。恐怖と孤独を乗り越えさせる。
 それはつまり、両親との繋がりをも捨てさせ、彼らの死を単なる成長のための通過儀礼に貶めることに他ならない。そして何より、この選択はそれまでの物語の、孤独と恐怖を抱えた「おっこ」という少女に救われた水領との物語を否定する行いなのだ。
 無論、これはおっこ自身の責任ではない。たとえ彼女が「おっこは一人じゃない」というメッセージを受け取ったとしても、きっとこう考えてしまうだろう。「自分が人に好かれているとすれば、それは自分が必死に若おかみを目指しているからであり、みんなが好きなおっこは、若おかみであろうとしているおっこなのだ」と。彼女にそう考えさせているのは、そう考える以外の余地を奪っているのはこの映画の責任であり、「ひたむきに頑張るおっこの姿に感動」してしまう観客の責任でもある。
 それまで一度も温泉に浸かることのなかった彼女は、全ての「試練」を乗り越えた最後の場面において、真月と共に湯に浸かる。だがそれは、水領がそうであったような、癒しと再生の描写ではない。彼女は傷を癒すためではなく、祭りの場において神聖な役目を果たすために、その身を清めるために湯に浸かる。悲しい過去とトラウマ的記憶を抱えて共同体にやってきた少女の物語は、トラウマを「乗り越え」、その身を清めることで終わりを迎える。それは新しい始まりなのだが、そこで洗い流されてしまうものたちに対して、映画はあまりにも不誠実だと思わずにはいられない。
 本作の根底にあるのは圧倒的な生者の、強者の論理である。それは傷口を癒し、痛みに寄り添うのではなく、傷口の上に瘡蓋を作り、新たな皮膚としていくその強靭さこそが「強さ」であるとする。そのこと自体を批判しようとは思わない。ただ一つどうしても耐えられないのは、本作が、自ら捨ててしまったもの、否定してしまったものに対してあまりにも無自覚であることであり、その無邪気さを多くの人々が共有しているように見えることなのだ。
 無邪気さが罪なのかどうかはわからない。春の屋の人々は、誰もが無邪気だ。おっこも、おっこの祖母も(両親を亡くしたばかりの少女のことを「しつけが行き届いておりませんで」とお客に紹介してへりくだる人間が、無邪気でなくて何だろう?)、ウリ坊も美緒も旅館の人々も、みんな無邪気だ。そこには、無邪気さの共同体とでも呼ぶべき何かがある。そして最後に訪れたあの運転手の家族の、小さな男の子ももちろん無邪気だ。たとえ彼が、石を手に、何の理由もなくトカゲを殺そうとしていたとしても。

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