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わたしが保育士からマリンバ奏者になるまでの話

● 保育士になるまでの話  

- 夢なんて何もなかった

もともと、私には絶対この仕事に就きたい!という願望はありませんでした。なんとなく、ずるずると、誰かが決めた道を歩んで生きていました。高校も大学も親から勧められたところを選びました。主体性は人一倍なかったと思います。

「保育士、向いてるんじゃない?」

親からのたったその一言で、保育士になろうと決めました。親が喜んでくれるのなら、それでよかったのです。 

- なぜ音楽の道に行かなかったのか

実習では失敗ばかりでしたが、唯一褒められたことがありました。
子どもたちの前で披露したドラムの演奏でした。


お別れの日に「アンパンマン」や「しまじろう」のテーマ曲を流し、それに合わせてミニ電子ドラムで演奏を披露しました。
給食の時に、お箸でドラムの真似をして叩いてみる子も出てきてしまうほど、大変盛り上がりました。

担当の先生から、「どうして、音楽の道に行かなかったの?」と聞かれました。


…あれ?どうしてだろう?

大変だから。
厳しいから。
狭き門だから。
才能がないから。
怖いから。
無理だから。


自分にとってその道を選択することは、大きな恐怖で、その不安に勝つことができませんでした。実習を経験して保育士になる選択は間違っていたのかと感じていましたが、学費も親が出してくれているのにもう後戻りはできないと思い、卒業後は保育士として働き始めました。


● 笑うことができなくなるまでの話

- 急に来なくなった先輩保育士


わたしの担当は、1歳児クラスでした。人数は23名。正社員がわたしを含めて3名、パートさんが2名です。

しかし、3ヶ月程経った頃に1人の担当の先生が突然置き手紙を残し、去ってしまいました。すぐに新しい人を雇うと聞いていたものの、結局最後までそのままでした。

パートさんは資格をもっていなくて、子育て経験もなかったので、保育についての知識がありませんでした。正社員2名で23名の1歳児を保育するのは、本来ならあり得ません。

それでも、誰かが転んで怪我した時や、噛みつきや引っ掻きを防げなかった時は、「なぜ守れなかったのか」と園長から厳しくお叱りを受ける日々でした。

- 笑顔が作れなくなった自分



次第に、私は笑うことができなくなりました。休日も保育のことで頭がいっぱいで何をしても、どこに行っても楽しめず、毎日泣きながら帰り、寝る前も枕に顔を押し付けてひたすら泣いて、暴食もしたり…。
あの時は自分がおかしい状態にあることに気付けませんでしたが、明らかに本当の姿ではありませんでした。


● 自由に生きる選択をするまでの話

わたしは1年間で保育士を辞めました。
当時、まだ社会経験も乏しかった自分にも沢山の非があったことと思います。職場の方々には数えきれないほどの迷惑をかけてしまいました。

最初は愛くるしくてたまらなかった子どもたちのことを、可愛いと思えなくなってしまいました。「こんな気持ちのまま保育なんてできないし、保護者と子どもたちにも申し訳ない…。」そう思い、園長に何度も引き止められましたが、"辞める"という決意は何を言われても曲げませんでした。

それから半年ほどニートになりました。
先に新しい就職先を決めてから辞めるべきだと、親からも注意されましたが、


正直、なーんにもしたくなかった!!!

なんにもしない時期が、必要だったのです。
次第に気持ちが楽になって、笑顔が戻ってきました。(周りからの目は痛かったけれど…)

そして、誰にも必要とされていない自分でいることが実は一番辛いことだというのを知りました。

自然とまた働きたくなり、就職活動を始めました。

- やりたい仕事がひとつも載っていない

求人情報を眺めても、何一つ興味が湧きませんでした。保育士の経験を活かしたらいいと、勧められた仕事もありましたが、同じ系統の職に就くことには抵抗がありました。

わたしが興味あるものってなんだろう。
何日もずっと考えていました。

昔、父の影響で LIVEにも行ったジュークの「テーマソング」という曲を聴いていた時に、ふと思いました。

善(シロ)と黒(クロ)の決められた 横断歩道(くりかえし)に生きるより
君は自分で探してほしい 楽じゃないけど 楽しい道を…

「誰かの為に…」なんて云う 善い理由なんて 捨ててしまえば
ちっぽけな弱い自分が そこにいるだろう。「そして、きっと…。」

歌詞:326 (中村満) 作曲:イワセケイゴ 歌:19


楽じゃないけど、楽しい道を…


「あ…、打楽器奏者になりたい。」


わたしが過去唯一「楽しい!」「やりたい!」「続けたい!」と思えたことは、打楽器しかありませんでした。

練習に集中し過ぎて、周りが全く見えなくなるあの感覚。
もしかしたら、自分は興味関心の方向が周りとちょっと違ったのかもしれません。できなかったことができるようになるのが楽しくて、練習によく熱中していたのは確かでした。

そんな純粋な気持ちのままに、楽器に触れることを楽しんでいた頃を思い出し、打楽器奏者になる方法を調べました。年齢的に考えると、専門学校を出ることが一番近い道のりでした。

当時、わたしは23歳。
24歳から2年間専門学校に通って、卒業したら26歳…。

まだ、間に合うかも。


わたしは親の前に正座して、自分の本当にやりたいことを手紙に書いて読み上げました。

簡潔にまとめると、

求人サイトには、わたしのやりたいと思える仕事が一つも載っていませんでした。
打楽器を真剣に勉強したいです。音楽の専門学校に通わせてください。

という内容でした。

遊びじゃなく、どうしたら真剣さが伝わるかを考えた結果の行動でした。

そして、24歳から音楽専門学校に入学しました。

- 周りとの年齢差が辛かった

入学後、一番辛かったのは周りとの年齢差でした。わたしは24歳で同期は18歳。6歳差がありました。気を遣って自分には敬語で話す子もいました。

周りの学生からも、先生からも、どう思われているのか、気にしてないふりをしていましたが、本当はかなり気にしていました。

「周りと比べずに、自分のことだけに集中しなければ。」と学内イベント本番後の飲み会も大半は断り、遊びに出かけることもほとんどしませんでした。周りと違って自分にはもうタイムリミットが迫っているんだと焦っていました。

正直、音楽的なセンスは皆無でした。試験はボロボロ。「24歳でその実力であれば諦めた方がいいだろう」と思われていたかもしれません。それでも、ただひたすら練習を続けました。


● マリンバ奏者になるまでの話

2年間で音楽を学びきれず、結局学校には3年間通いました。

卒業後は、コンクールを受けました。繋がりも仕事も実績も何一つなく、コンクールを受けることしか選択肢がありませんでした。
在学中に、指導してくださった先生に恩返しをする方法は「卒業後に実績を残し活躍すること」という話を聞いて、とにかく早く実績を残し、演奏の仕事をしたかったのです。

そして、奇跡的に3つ受けたコンクール全てで入選・入賞をし、結果を残すことができました。誰よりも先生が喜んでくれたのが、嬉しかったです。

そこからコンクール繋がりで演奏のお仕事を頂くことができ、とんとん拍子とまではいきませんが、少しずつ少しずつ、仕事を頂くようになりました。自然と音楽関係者の方との繋がりも増えました。

ホールや幼稚園での演奏のお仕事をいただいたり、オーケストラのエキストラに呼んでいただいたり…。

保育士を辞めてから6年。


正直、とても怖かったです。

毎日多くの時間を費やしている練習が無意味に終わってしまうんじゃないか、このまま卒業しても何もお仕事をもらえないんじゃないか、、

不安でいっぱいでした。

でも、好きだから全部乗り越えられました。
好きじゃなかったらきっと辛いだけでした。

30歳となった現在。
マリンバ奏者として活動を続けています。
(まだまだ修行中の身ではありますが。)


楽じゃないけど、楽しいです。




#私だけかもしれないレア体

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