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鈍感ライフのすすめ

コロナウイルス陽性ということで、おとなしく自分の部屋に引きこもっている。妻は強力な免疫力を持っているらしく、今のところなんともないようだ。私は彼女と25年以上一緒にいるけれど、彼女が風邪をひいたり熱をだしたりしたのを見たことがない。同じ人間でもこれだけ免疫力に差があるのは不思議な気がする。進化の過程で厳しい世界をかいくぐってきた祖先とのほほんと生きていた祖先の差なのだろうか。ただ単に日々の生活の不規則さの差かもしれないけれど。

相変わらず喉はいたくてたまに咳もでるけれど薬を飲んでいるので熱も平熱だし、喉以外にどこかがいたいとかだるいということもない。あれだけの勢いで人類を殺したウイルスが3年たつとただの風邪になるというのも本当に不思議だ。進化というか、淘汰というか、そうやって人類はふらふらとしながら偶然に今の姿と免疫力を獲得してきたのだろう。

家にいて別にやることもない。家にテレビもないし、ネットフリックストとかそういうサブスクにも入っていないのでいつも通りラジコでTOKYO FM(北海道ではAir-G)を聞きながら見るともなくネットのニュースを見たり、kindleで本を読んだりしているうちに一日が終わる。退屈と思われるかもしれないけれど、私はそういう生活を昔から一切退屈だとか窮屈だとか感じることがなくて、多分何日でも淡々と今と同じ生活を送ることができる。

なぜ、そう言えるのかと言えば、20年以上前の25歳のわたしは、そんな監禁状態で数カ月もの間、ベッドの上でそんな生活をしていたからだ。

ガンになって手術と化学療法で半年間入院していた中で、肉体的につらいのは手術の後と化学療法で危険な化学物質を体内に注入されている間だけで(その時は本当に死ぬほどつらかった)、それ以外の時は体調はいたって普通の状態で、ただ化学療法で免疫力が大きく落ちているので外出もできずに病院のベッドでただ横になっているだけの日々。印象としては全体の70%はそんな生活だったから、4カ月以上はただベッドの上で休養するだけの生活を送っていたということになる。

そんな中で、私は今と同じようにノートパソコンでネットを見るともなく見続けていた。当時はスマホなんかなく、出たばかりのPHS(AiH")を契約してネットに接続し、2ちゃんねるとか、ネットニュースとかをだらだらと見続けていた。通信速度は128kbps。今のスマホの1/200の以下の通信速度だ。でも当時はYoutubeもネットフリックスもなく、掲示板を見るならそんな速度で十分だった。今の若者は当時の私の200倍の速度で情報を受け取っていることになる。うらやましい気もするし、かわいそうな気もする。今より200分の1のスピードで生きていいよと言われたら、今の若い人はホッとするのではないだろうか。今の情報量と速度についていかなければいけない若者たちに、私は心から同情する。

朝から晩まで、延々とベッドの上でパソコンの画面を眺め、朝昼晩と味気ない病院の食事を3回食べるだけの日々。当時の私はそのことになんの感慨ももたず、淡々と日々をやり過ごしていた。

なぜだかわからないけれど、昔から私はそういう生活が全く苦にならない。多分これからあと20年引きこもり生活をやれと言われても普通にできると思うから、ニートの素質があるのだと思う。一方で仕事で死ぬほど厳しいノルマを設けられても50人の部下のマネジメントを任されても、それに対してプレッシャーを感じることもなく今の仕事を続けることも苦にならない。淡々と今の仕事をやり遂げたいと思うけれど、他の人が同じことができるかと言えば、そんな簡単なことではないと我ながら思う。

環境適応力。
と言えば聞こえはいいけれど、ただ単純に、私は極端に鈍感なのだと思う。どんな環境に置かれてもそれに対して不平不満を言うこともなく、その時にできることをやるし、できなければやらない。なにもしなくていいといわれれば何もしない。そんな風に50年近く生きて生きた。

向上心
自己実現
自己肯定感

街の本屋やアマゾンにはそれをあおるビジネス書や自己啓発本があふれているけれど、本当に必要なのはそんなものではない。人類が進化の過程で得たもっとも大きな力は、環境適応力という名の鈍感力だと私は思っている。

そして、この力は誰にでも身についているのかと鈍感な私は思っていたけれど、どうやらそうでもないようだ。

周りの人の意見や評価に右往左往する人たち。今の流行を追うことに必死な人達(その多くは自分が流行を追っている事さえ気づいていない)。

もっと鈍感に生きたら、今よりずっと幸せになれるのに、と私はシンプルに思う。


鈍感さ。

人生はいろいろなことが起こるけれど、それをあるがままに受け止めて、そんなものだと思って生きることができば、人生は案外うまくいくかもしれない。もちろんそんな甘くない人生を生きている人たちがいるのは十分承知しているつもりだけれど、彼らが鈍感さを破棄して敏感に生きたほうが幸せになれるのかといえば、そうではないだろうと私は思う。

モノと情報があふれかえり、
モノと情報に追い立てられる世界で、
鈍感ライフを送るのは、とても贅沢な人生なのだろうと、私は思う。

そして、そんな人生を
みんなが送ることができればいいと心から思う。




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