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聴覚障害児にとって「聞こえる子ども」の存在とは?

このタイトルは、私が大学生の時に「宮城県難聴児を持つ親の会」からのご依頼で寄稿したものです(宮城県難聴児を持つ親の会 機関紙「坂道」 第78号, Pp.8-9)。

寄稿したきっかけは、当時の親の会に所属していた親御さんの方々との語り合いで「聞こえる子ども」との関係への捉え方に気になることがあり、浅学非才の身でありながらしかし勇気をもって書いてみたものです。

以下の文章に友達Aが登場しますが、彼のことを非難するものではなく、彼とつながれたことに感謝しつつも、当時のインテグレート環境でどのように生きていかざるを得なかったのかということを問題提起しているものです。

ちなみに、インテグレートとは、簡単にいうと、障害のない子どもたちが通う学校に障害のある子どもが入ることを指す当時のコトバでした。今でいう障害のある子どもに対する合理的配慮は、当時はむしろ障害のない子どもと比べてそれは”不公平”であり、“特別扱い”だと拒否されることが多く、障害のない子どもたちや教員の“基準”で生きていかざるを得ない状況でした。

以下のような問題状況がもし現在も起きているのであれば、皆さんで改めて考えていくべきことかもしれないと思い、ここに紹介します。

====以下、転載====

聴覚障害児にとって「聞こえる子ども」の存在とは?

インテグレートする聴覚障害児(以下,聴障児)にとって,「聞こえる子ども」との人間関係をどのように作っていくかは,学校生活を過ごす上でとても重要なことです。

現在も,一般学校における障害理解や障害認識,さらにはコミュニケーション支援も十分でなく,それゆえ聞こえない子ども自身が独りで問題を解決せざるを得ない状況がなお続いています。そうした状況で聴障児の立場やニーズを理解する「聞こえる子ども」がいれば,聴障児にとっては心強い存在となるでしょう。その「聞こえる子ども」と仲良くなり,お互いの悩みを共有していくようになれば,それは「親友」とも呼べる関係へ発展していくでしょう。

しかし,ここで果たして本当に聴障児にとって,その「聞こえる子ども」は「親友」となりえているのでしょうか。それについてまずインテグレートした私自身の経験から考察したいと思います。小学校時代,私には6年間ずっと同じクラスの仲良しの友達A がいました。彼とのかかわりについてエピソードを紹介します。

小学校時代のエピソード
いつも昼休みや放課後などでクラスメイトが集まってこれから何を遊ぶか計画を立てています。その時は友達A がいつも私のことを気にかけてくれて,他の友達に「丈君がいるから一緒に遊ぼう」と話してくれ,みんなも快く受け入れてくれました。また集団会話をしている時も,友達A は,私に話の内容を細かく説明してくれました。しかし,集団会話で盛り上がったり関心の強い話題に及んだりすると,だんだん友達A も私に説明をしてくれなくなりました。それで私から,「いまの何?何?」「なんでみな笑っているの?」と何度か聞こうとするのですが,友達A もみなの会話に遅れるのが嫌で,「あとでね」「ちょっと待ってて」と言って説明をしなくなるのです。みなと一緒に楽しくおしゃべりしたい友達A の気持ちがよくわかるので,これ以上しつこく聞くことはできず,諦めてわかったフリやウソの笑い顔でその場にいるしかありませんでした。

私は,上記のようなエピソードを学校生活のあらゆる場面で経験しました。友達A は,ホームルームや学年集会などのフォーマルな場面でで連絡事項があると通訳者のようなサポートをしてくれましたが,昼休みや給食場面などのインフォーマルな場面ではそうはしてくれませんでした。

しかし上のエピソードのように,遊びのなかに入れてくれたり他の友達との接触機会を確保してくれました。その意味では,友達Aは,『共有経験のパイプ役』として働きかけてくれたということになるでしょう。

一方で,こっちから友達A に要求しようとすれば,逆に友達A やみなから弾き飛ばされるのではないかという恐怖がいつもありました。それを回避するためにも,友達A の様子を伺いながら,自分の気持よりみんなの気分を害さないことを優先してなんとか表面上で取り繕っていました。その意味で,心から安堵して一緒にいられる関係とまでは言えないところもありました。友達A の存在がなくなってしまえば,私が聴者多数社会で生き抜くための情報(授業などの連絡事項やクラスメイトの趣味など)が得られなくなってしまうからです。

したがって,友達A は『サバイバル情報の流通者』であり,それゆえに友達A と私との間で,情報提供者vs 情報獲得者という力関係が生じてしまうのです。つまり,情報を提供してくれるためには,私から友達A の機嫌をよくしたりなんとか仲のよい関係を保つように取り計らうことを必要条件とせざるを得ません。

これまで聴障児を持つ親の方々から,「やっと自分の子どもに聞こえる親友が出来た」と安心して話すのを聞きます。しかし,上記したように自分の経験から考えてみますと,果たして「親友」ということばは合っているのだろうか・・・と首を傾げます。

お互いに悩みや本音を言い合えるような関係での「親友」というよりは,聴障児から百歩譲った上で,他の子どもたちとの関係をつなげてくれる共有体験のパイプ役としての「親友」といったほうがもっとも現実的なように感じます。

たとえお互い悩みや本音を言い合えるような関係もあったとしても,そこにはやはり聴障児から百歩譲っているという事実は変わりないのかもしれません。どのようにすれば,聴障児が遠慮なく自分の考えを主張して,聞こえる子どもとともに共存共生を図ることができるのでしょうか。それについて子どもとじっくり語り合ってみてはいかがですか。