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自分自身について思索する「熱量」。

自分自身について思索する、とはどういうことだろうか。

これについて、教育心理学者の西林克彦が長年研究している「わかったつもり」のメカニズム(図)との関連で考えてみよう。

例えば、自分を棚上げしてAというものごとを考える。Aは〇〇だ(文脈1)、自分は△△だ(文脈2)、というふうに。図でいえば、左側で文脈1において部分1(例えば、Aや〇〇)と、文脈2において部分2(例えば、自分や△△)と適合している。しかし、文脈1と文脈2はつながっていない、つまり、不適合、ということになる。でも、部分1と文脈1、部分2と文脈2は適合できているから、文脈間の不適合には気づかず、それでいいのでは?と「わかったつもり」になる。そこで、文脈間の不適合に気づき、さらに、Aと自分は切り離さない、つまり、自分を棚上げせずAとのつながりを思索してみたらどうなるだろうか。その結果、Aの文脈と自分の文脈とがつながる新たな文脈(統一的文脈)が見出されるかもしれない。「わかったつもり」が解消され、新たな自己理解や自分発見が起きるわけである。

これと似たようなことを哲学者の森岡正博さんも次のように言っている。

自分を棚上げせずにものごとを考えていくとは、その「ものごと」を突き詰めることであると同時に、それを突き詰めようとする「自分自身」をもまた突き詰めることなのだ。その両方の営みが車の両輪となることではじめて、自分を棚上げにしない思索というのは開始されるのだ。…まず、自分が解明したい何かの「問題」を目の前に取り出してきて、それについて考える。そうやって考えを深めていって、あるところまで進んだときに、今度は、視線を百八十度転換して、その問題を考えているところの「この自分」について考えてみるのだ。その問題が気になってしかたがない、この自分とはいったい何者なのか。この自分は、その問題といままで生活の中でどのようにかかわってきたのか。そういうことを考えていく。そうやってある程度まで自分のことが分かったとき、今度はふたたび、「問題」それ自体のほうへと思索を移していく。(森岡, 2006)

森岡(2006)は、「問題」と、「問題」に向き合う自分自身の2つの思索を往還していくことの大切さを伝えている。西林の言う「統一的文脈」までは明確に述べていないけれど、そうした思索の往還の先に、新たな文脈を見出す、いわば自分自身に関する新たな発見が起こることを示唆するという点では、西林(1997)の主張とつながっていると思う。

これらを学生教育の場で実践するとなると、学生の側にそうした思索の往還の旅へ向かう「熱量」も必要になってくるのではと感じている。

「熱量」は、「原動力」とか「やる気」とかそういうものとはちょっと違う。思索をどうしてもしたくなる、思索しないではいられない、といった「自己存在の証明や意味への渇望」という意味であると考えている。

例えば、学生が「自分はAというものごとについてこのように考えていきたい」と対話や議論で深めていったところで、「なぜそのように考えるのか。他にもこういう考え方がある。そのなかでどういうふうにしたらあなたのいう考えに至るのか。なぜその考えに価値があると考えるのか。」など、こちらから問うことにしている。その結果、「ものごと」と「自分自身」の間を往還していくうちに学生の熱量があがり、思索も深まっていく学生がいれば、逆に困惑・躊躇・逡巡し続けたり「考える必要はないと思います」と拒絶したりする学生もいる。

この違いはどこから来るのだろうか。おそらくAに関して、「自己存在の証明や意味への渇望」につながるリアリティを体験したかどうかと関わっているように思う。そのリアリティは、困った体験、失敗の体験、苦労の体験などに内在していることが多い。学生たちとの対話や議論でそうした体験に触れることで学生の「熱量」があがるかどうかが、冒頭の思索の旅に踏み出す一歩として重要かもしれないと感じている。

特に、卒業研究で何度も失敗や苦労を体験しているにもかかわらず「熱量」が一気に、あるいは徐々にあがって思索する学生たちを見ていると、なおさら強く実感する。卒業研究でようやく変わっていく彼らの様子を見ると、「自己存在の証明や意味への渇望」につながるリアリティの体験が実はこれまで不足していたのか、あるいは抑圧されていたのか、どちらかのように思えてしまう。

ただ、Aに関する様々な体験が現在の学生自身の心身面にネガティブな影響を及ぼすような場合は十分に留意しないといけない。その体験に触れてみるのは、Aに関する体験に対して学生自身が向き合うような姿勢や雰囲気が出てきてから、というふうに。

それに、「熱量」が低いようにみられる場合は、その低さを学生の責任や能力など個人に帰結させるかのように学生を安易に批判してはいけないとも思う。学生教育を実践する自分自身を棚上げしてはいけないということもできる。

冒頭の西林(1997)と森岡(2006)のような実践には同意するし、自分自身という人間のありかたを探求するうえで非常に重要な意味を持っていると思う。

だからこそ、学生教育の場でそれを実践するためには、自己存在の証明や意味への渇望といった「熱量」が学生一人ひとりに内在しているのかにも丁寧にまなざしを向けないといけないと思う。そして、「熱量」があがるための係わり合いを私たちはどのように実践するのかということも考えないといけないだろう。

そうして一人でも多く自分自身について思索できる学生たちが出てくれば、「生きとし生けるもの」の多様性の意味や生存の価値としっかり向き合える令和時代が到来するのではないかと思う。