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集団会話の「トピック」をめぐる聴覚障害当事者研究

私は、高校を卒業するまで「1対1会話」の世界を生きていました。

「1対1会話」というのは、複数の他者の音声日本語の発話を聴き取ることが難しいため、他者の口唇運動を一人ずつ読み取って発話内容を推測する方法(読唇)で話を聞く必要があったからです。

日本語は、聴覚で受信すれば50音に分けられますが、視覚で受信すると50音が15パタンになってしまい、いわば「同口異義語」のようになってしまうのです。例えば、「いう」「きく」「いす」「りゆう」「ニーズ」「しる」「ひる」「にく」「ひふ」「きゆう」などは、[iu]というパタンから出てくる同口異義語です。多くの立候補(脳が勝手に出してくるような感じ)から最有力候補を取り出すために話者の特性、話題、会話場面の特性などの関連情報をフルに関連付けさせて推測する必要があるわけです(これは「読唇」の聴覚障害当事者研究でより多層的に苦労が生じていることがわかりました。これは別に詳しく説明します)。そのため複数の他者の発言を一斉に読唇するのは無理で、結局「1対1会話」で推測できる範囲内で会話することが多かったわけです。

そんな状態で宮城教育大学に入学し、学部2年の時に学内に手話サークルを設立することになりました。設立してやがてメンバーたちは手話を使って雑談や会議できるまでに上達しました。これでやっと私も人生で初めて「集団会話」の世界に参加できます。手話があれば複数の他者と一斉に会話できますから。

ところが、後になって自分は全然参加できていないことに気づきます。黒板には、どうやって手話指導するか、グループ分けをどうするかなど議題が書かれています。私は、議題が「トピック」だと思っているので、その「トピック」に対する“最適な回答”を皆さんで話し合うものだと捉えていました。ただ、それは「1対1会話」における「質問−応答」といった代表的な発話連鎖に基づいたものでした。

一方、メンバーたちの方は、何が“最適な回答”なのかを話し合おうとしません。“最適な回答”に直接つながる内容ではなく、その「トピック」になんとなく関連しているような内容の会話を真剣にやっているわけです。しかもその発話内容が次々と変わっていきます。その発話連鎖が議題と一体どのようにつながるのか私は混乱しはじめます。しかしメンバーたちの顔を見るとそんなに混乱している様子でもなく、まるで「トピック」がスムーズに流れているように「集団会話」が進んでいます。

待てなくなった私は、その流れを断ち切るかのように(自分は流れを修正してあげたつもりでしたが)、“最適な回答”を提案すると、皆さんは「唐突」だと感じたようで戸惑いの表情を浮かべます。しかも「何でいまそれを話すの?」と逆に注意されてしまいます。なかなか議論が噛み合いません。

そうした場面を何度か経験しているうちに、「何かおかしい、自分はヘンなことを言っているのだろうか」と違和感や焦りを持ち始めました。何しろ手話サークルの代表を務めていたわけですから、皆に迷惑をかけないように議論を進めないといけなかったからです。しかし何が問題なのか全くわかりませんでした。ただ、手話を皆で使ってくれれば自然に解決するものではないということだけは確かでした。

そんな時に、岡本夏木(1985)の「ことばと発達」に出会います。この本には、子どもは最初、1対1会話の経験を通して「一次的ことば」を獲得するが、幼稚園以降の集団会話の経験を通して「二次的ことば」も獲得していくと書かれています。いずれも「話しことば」を使うものなのですが、集団会話では、不特定多数を相手に話すため、誰が聞いてもわかるように自分で内容を編集し、単語や文法などを1つの文脈に配列して話すことが求められるとのことでした。それが「二次的ことば」であり、幼稚園から教師の援助を受けながら少しずつ自分でできるようになっていくわけです。

なるほど、私は高校まで集団会話に参加することができなかったのだから、二次的ことばとしての話しことばは身につけられなかったらしい。一方で、メンバーたちはすでに幼稚園に入ったときからもう身につけてきた。だから「集団会話」をめぐって歴然とした能力差がメンバーたちと私の間に出ていたのかと思いました。「二次的ことば」が自分には足りなかった、これが問題なのかもしれないということがわかってきました。

それなら次にやることは、手話サークルの会議でどのように実践したらよいのか?ということです。残念ながら岡本の同著には「こうすればよい」というような内容は述べられていませんでした。他の文献を探してみても納得のいくものが見つかりません。

しかたない、現場に身を置いて考えるしかありません。メンバー同士がどのように会話をしているのかを観察してみることにしました。議題とどのように関連しているのかにこだわるのはもうやめて、メンバー同士がどのようにして「トピック」が途切れずにしかもスムーズに流れるように会話しているのかを。また、私が“ヘンなこと”を話してしまった時は、あとでメンバーに「自分の発言のどこがヘンだった?どうすればよかった?」と聞くことにしました。

こうした実践を通して見えてきたのは、①“最適な回答”をいかに早く出せるかではなく、“最適な回答”を導くためにそれぞれが持っている情報や視点を出し合うといった「協働」に価値がおかれていて、それが暗黙の共通認識になっているらしい、②その情報や視点を出し合う時は必ず先行発話に片足だけかけながら自分の話したいことを話しているらしいこと、③誰と誰がどのトピックに関わっているのか(あるいはそれがまだ続いている状態なのか)、どの発話からどの発話までが“今”も続いている「トピック」になっているのか(どの発話からどの発話までが“今”から外されたのか、あるいは保留されているのか)に注意を向けており、これらが今の「トピック」は何かを捉える手がかりになるらしいこと、④そのために断定的な表現は使わず、次につながるように“遠回りに話す”“断定せずにやんわりと表現する”ということを心掛けているらしいこと。これらが全員にとって了解可能な“最適な回答”に接近する手続きであり、それをメンバーたちは実践しているらしいのです。しかも音声日本語を第一言語として身につけている聴こえるメンバーなので、日本語における集団会話の文化の一形式なのかもしれません。

これらがその通りだとすると、「集団会話」を行うためにここまで頭をフルに使わなければならないのか、本当に大変で厄介だと思います。実際メンバーでさえ、私に「遠回りに話した方がよいよ」と指摘してくれても「遠回りって具体的にどう言えばよいの?」と逆に質問すると閉口してしまうほどですから。ともかくこうして「集団会話」とはどういうものかが少しずつ見えてきたおかげで、私なりに失敗しながらも徐々にその時々の「トピック」を捉えてスムーズに発言できるようになってきました。

その後、東北大学大学院博士課程に進学し、「物語」に関する文献調査をしていた時、串田秀也(1997)の「会話のトピックはいかにつくられていくか」(谷泰(編)「コミュニケーションの自然誌」)に出会ったのですが、上記の経験と非常につながる内容が書かれており、これだ!と思わず膝を打ちました。

会話のトピックがいかにして適切に生起しうるかを考える際、会話者たちが何を「一続きの現在」とみなしうるかという時間共有感覚と、「誰と誰がどのような参与の構図のなかにいるのか」という空間的共有感覚とを参照することのなかに、その手がかりがある。

つまり、「誰と誰がいつからどのように一緒にいるのか」が「トピック」を捉えるために重要な手がかりになるということです。議題のようにいわゆるテーマは、本質的に会話の「トピック」ではなかったのです! そうした共在感覚(串田が2つの共有感覚をあわせて作った用語)を、聴こえるメンバーは1つの言語文化のなかで「集団会話」を実践しながら磨き上げてきたのでしょう。これは簡単に言語化して説明できるものではないです。集団会話をテーマにしたマニュアルの類を見ても、そのようなことはあまり書かれていません。

聴覚障害のある子どもへの教育支援で、そのようなことに着目して「集団会話」を題材にし、いかに手がかりを取り出せるか、いかに一緒に”着陸点”を探っていくか、という「学習言語」にも関わる教育実践は本当に必要だと思いました。その意味でも、大学院生時代に設立したセルフヘルプグループ「宮城県聴覚障害学生の会」では、聴覚障害学生だけでなく聴こえる学生も参加してもらっていかに「集団会話」を実践したらよいかを考えながら話し合ってもらうことで、一緒に共在感覚を獲得していけることを個人的にねらいとしていたわけです。

このようにして自分なりに聴覚障害当事者研究を進めることで、集団会話の「トピック」の手がかりを捉えながら参加できる対処法を獲得することができました。