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「~すべき」に対する圧倒的拒否感

かの美輪明宏さんの著書に「正負の法則」というのがある。一言でいえば、人生いいことがあれば悪いこともあり、いいことばかりの人生を送る人も、悪いことばかりの人生を送る人もいない、という趣旨の本である。

絶世の美女と謳われたエリザベス・テイラーは、その名声と同時に8度の結婚と生命に関わる闘病生活でも知られている。戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した原節子も同様に、引退後は完全な隠遁生活を送り生涯独身を貫いた。他にも幾つかの例を挙げ、美輪さんは「盛者必衰」を説く。

素晴らしく良いことが降りかかってきたときによく使われる「運を使い果たした」という表現。このように、人生において、各人の幸福や運というのはおおよその分量が決まっているものなのだろうか。だとしたら、他にも分量が決まっているものがありそうだ。

例えば「怒り」。怒ってばかりの人は決まった分量の怒りを使いきるのが比較的早く、その結果、心身にダメージを受け病気になるのだろうか。実際に、米国立老化研究所の研究では「競争心が強く攻撃的な性格の人は、心臓発作や脳卒中のリスクが高い」という結果がでている*。

例えば「選択力」。話題になった「選択の科学」を著したコロンビア大学シーナ・アイエンガー教授の「コロンビア白熱教室」はご覧になっただろうか。少ない選択肢のほうが売り上げが伸びるというジャム売り場の実験結果は興味深い。Steve Jobsもそうであったし、Mark Zuckerbergをはじめ、選択力を重要なものに向けるため、毎日のワードローブを決めているという人もいる。こういった現象を見ていると、「選択力」というのもまた、人生において有限なるもののひとつなのかもしれないと思えてくる。

現在の自分が「使い切ってしまった」と日々感じるのは「我慢力」である。「自律力」とも重なる。人生において100の「我慢力」が与えられているとしたら、うつで休職する前後に100全て使い切ってしまった、という実感がある。なぜなら、今とにかく我慢ができないからだ。堪え性が無い。例えば、家事。やらなければいけないとわかっていても、気分がのらないとどうしても出来ない。以前は普通に出来ていた「気分がのらなくても、やるべきことだからやる」といった自制が見事に効かないのだ。

家事ぐらいならまぁ何とかなるかもしれないが、自分でも驚いたのは、同じ理由で面接を3度も延期したことだ(含ドタキャン)。面接大好き!という人は少ないと思うが、その重要さは誰もが知っている。時間通りに面接場所に現れるのは基本のきである。そんなことは十分わかっているのに。以前は難なくできていたのに。自尊心の低下を抱えながら自分をアピールする場に向かうということが苦痛すぎて我慢できなかった。

もっと言うと、医者との面談も何度もドタキャンした。行かなければいけないことはわかっているので予約はするのだが、当日になるとどうしても行けない、そんなことがある時期続いた。より厳密に言えば「~すべき」に対する耐性が著しく下がっているということか。過去の人生において「~すべき」を強要しすぎたおかげで、今の私は「~すべき」に圧倒的拒否感があるのだ。自分でもそれがコントロールできないくらいの。

とはいえ、このままでいいとは思わない。40年ほど「~すべき」に振り切っていた針が、うつをきっかけに今度は思いっきり「~すべき」を拒否する方向に振れることで精神のバランスを取っているのだとしたら、「~すべき」を拒否しまくったその先に、自分はいわゆる「中道の境地」に至ることができるのだろうか。3週間ほどアイロンせずに置きっぱなしのシャツ数枚を横目に、そんなことを考えている。

*https://style.nikkei.com/article/DGXMZO05269880W6A720C1000000/




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