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Ms.Mの粋な計らい

上の写真は、小学校最後の学年(グレード7=日本の中学1年生)だった息子とH君、ほか仲良し2人でボルダリングに行ったときのものだ。

H君は、お父さんの転勤でバンクーバーにやってきた。英語がほとんどわからないまま現地校に通い始め、息子と同じクラスになった。息子は拙い日本語を使ってH君と先生との間をとりもったり、H君が困ったときは通訳としてかりだされているうちに2人は仲良くなった。

H君のお母さんもほとんど英語ができなかったので、私も影でヘルプしていた。お父さんの会社の意向で急な帰国が決まった際は、手続き等大事な話があるので同席してほしいとクラス担任、Ms.Mから請われた。

「最後だから、授業を休んで仲良しのクラスメイトと楽しい思い出を作ってくればいいと思うんだけど。この日かこの日なら半日学校さぼっても大丈夫じゃない?」

事務的な話しが一通りすんだあと、Ms.Mはにこにこしながらそう切り出した。もともと感受性の高いタイプだったH君のお母さんは、思いがけないその思いやりあふれた粋な提案に、感激して泣きそうになっていた。

「H君はカナダの最後の思い出に何がやりたい?」
なかなかやりたいことが思い浮かばないH君に、Ms.Mは自分で考えた幾つかの候補を提案してくれた。例えば乗馬体験。「私のツテを使えばディスカウントもあるし、他にもいろいろいい思いができるわよー」。なんでも自身が乗馬クラブの会員らしい。

最終的には、H君の希望でボルダリングに行くことになった。Ms.Mは、H君が選んだ2人のクラスメートの親たちにそれぞれ説明し、委任状をとり、割引予約をし、素晴らしい思い出づくりのお膳立てをしてくれた。

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この「おおらかさ」と「余裕」には、長年この地に住んでいる私も驚いた。日本だったら同様の状況で、こんな提案をする先生はいるだろうか?こんな提案を許す校長や教頭はいるだろうか?親やPTAの反応はどうだろうか?

「みんな一緒」という、かえって不平等になりかねない「うわべの平等性」が幅をきかせる学校で、みんなと違う行動をとることは受け入れられるのだろうか。しかも先生主導で。

先日アップした上のnoteでも触れたが、日本とカナダの先生を比べたとき、最も大きな差があるのは「精神的余裕」の有無ではないかと私は思う。

子供の成長とともに10年以上この地の教育システムと様々な先生方を見てきて思うに、彼らの「精神的余裕」を支えているのは以下の要素だと思う。

①「教える」専門職への尊敬
② 個人への尊重
③「教える」ことにフォーカスできる環境づくり

まず、「教える」プロは、国の将来を担う子供達を導いていく大切な役割を担っているという社会的尊敬が下地にある。

その役目を全うするために、一人一人の教師にはその能力を存分に発揮してもらいたい、という思いから、個人に大きな采配権が与えられている。

指導要綱のようなものはあるが、教師の個性や強みを十分に生かせる余地が与えられている。つまり、プロとしての個人が、個人の力量が、尊重されている。

例えば「アルファベットを覚えさせる」という学習目標に対し、劇を使うか、歌を使うか、図書館を使うか、ゲームは使うかは、教師の腕のみせどころ。

最終的な目的地は同じでも、その道のりを選ぶのは教師である。選択の余地があるからこそ、個人のクリエイティビティ―、個性や強みといったものが発揮される。

教師が「教える」ことにフォーカスできるよう、バックアップ体制も万全だ。事務は事務方が処理し、休み時間には専門スタッフが、ランチ中はカフェテリアのスタッフが子供たちを見守る。問題がおきればスクールカウンセラーが対応する。

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やらなければいけないことにいつもいつも追いかけられているような状態で、良い教育ができるものだろうか。

いくら優秀でも「精神的余裕」がない人間に、いい仕事はできない。なぜなら、グーグルの調査報告で一躍知れ渡ったように、いいパフォーマンスには「心理的安全性」が欠かせないからである。これは教師だけでなく、どんな職業にもいえることだ。

「精神的余裕がない」と、人はしばしば以下のような状態になる。
・相手を理解する余裕をもてない
・相手を思いやる余裕をもてない
・自分を俯瞰する余裕をもてない
・自分を成長させる余裕をもてない

教師がこんな状態では、本来(本人に余裕があれば)教えられたであろうはずのことも教えられずに終わる可能性が大きい。

現在の日本では、全員と言わないまでも、多くの教師が「精神的余裕がない」状態に置かれているのが残念でならない。教師はもちろん、子供にとっても親にとっても大きな損失である。

カナダの教育が日本の教育より優れているとはいいきれない。どちらにも良い点があり、悪い点があるだろう。

ただ、外から眺めていると、日本の学校は先生も生徒もあまりにも窮屈そうに見える。もう少しあちらこちらで「ガス抜き」しつつ「精神的余裕」をもちながらやるほうが、学習成果もあがるだろうし、なによりも楽しいだろうと思うのだが。

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