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【伝統には“アイ”がない】

獅子踊りや神楽などの伝統芸能について、代々この地に「伝わってきた」と言うことはあっても、その担い手自身が「伝えてきた」とは言わないのは何故だろうか?

経験の浅い担い手ならばまだしも、指導者的な立場の人でさえもけ決して“伝えてきた”とは言わず、“伝わってきた” と話す。

つまり、英語でいうところの「I(アイ)私」が無いのだ。

他人からすれば、どうもでいい話だと思う。
下手をするとただの言葉遊びに聞こえるかもしれない。だが、自分の中では物凄く好奇心をくすぐられる部分(その地に暮らす者が世代を越えて宿すメンタリティ)であると同時に、小さな違和感でもあった。

それはまるで、“魚の小骨が喉に引っかっているような感覚”とでも言ったら伝わるだろうか?

そんなある時、偶然つけたドキュメンタリー番組が1つのヒントを与えてくれた。

【ETV特集「熊を崇め 熊を撃つ」】秋田県
https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/20/2259642/



そのヒントとはずばり「信仰心」である。
信仰心というと、どこか怪しい雰囲気であったり、人によっては警戒心を抱く人も少なくない。かく言う私もその一人だ。

このドキュメンタリーでは熊を「山の神」と崇め、山に入る男たちを「マタギ」と呼び、その男たちに向けて、番組ディレクターが容赦なく現代の価値観をぶつけていくというもの。

“なぜ神と崇める熊を撃つのか?”
”ハンターとマタギの違いは?“

その答えは是非とも番組を見て確認してもらいたいのだが、音声から伝わってくる葛藤の様子や、映像が物語る熊と人間の“命”と“営み”に強烈なメッセージがある。気が付けば自分すっかりその警戒感を解いていた。

だがしかし、また新たな違和感も生まれていた。。
その違和感とは、番組ディレクターが「なぜ?」「どうして?」とマタギに尋ねる度に増していく。

というのも、マタギは年々後継者が減っていて、その理由を番組では、『熊の肉や毛皮が売れなくなり、生業として成立しなくなっていったから』という説明がされていた。

そこにすかさず番組のディレクターが、「“生業として成立しなくなったマタギをなぜ今も続けるのか?”」という質問をする。

すると、マタギはしばらく悩み
「分からない。ただ金のためではない」とだけ話した。


この時、私の頭の中で「伝統」という言葉が、実際にそれを担う人々にとって、何であるかがぼんやりと浮かんでいた。

資本主義という観点でみれば、番組ディレクターが「なぜ?」と質問したことは至極真っ当なことだろう。なぜならばそこに経済合理性がないからだ。

しかし、そうした価値観から一旦離れ、改めてその地で暮らしてきた人々の文化や生き方を紐解いていくと、それはもはやどこまでいっても正解のない領域(神事)であるように思えたのだ。

同時に私個人の中で、“正解がないからこそ「排除」されない”というロジックが成立した瞬間でもあった。


それだけに、仕留めた熊は“マタギ勘定”と言われる風習によって、獲った者も獲らざる者も皆が平等に熊を分け合うというシステムが古から整備されている。

それはつまり「私が(仕留めた)」という部分が前段の郷土芸能の担い手と同じで「I(アイ)がない」という共通項を見い出すと同時に、行き過ぎた現代の競争社会に対するアンチテーゼのように感じられたのだった。

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