大正大学での授業① :僕と震災。

先日、こども東北学の山内明美さんにお声がけいただき、大正大学の地域連携・地域貢献論(東北再生)で、授業をさせて頂きました。受講生の多くは大学1年生で、東日本大震災の時は、中学3年生〜高校2年生だったそうです。

何を話してもいいと言われたのですが、普段高校生・大学生と接する機会が全くない中、何を話すか悩みに悩みました。まず、僕自身が人の話を聞くことがとっても苦手で(というか大嫌い)、中学生位から大学卒業までまともに授業を聞いた記憶がほとんどありません。塾での授業と、大学時代のおもしろい先生の授業いくつか位です。

そんな僕が授業をやると。もう何を話しても、みな寝るイメージしか沸かなかったのですが、せっかく大好きな明美さんにお声がけいただいたので頑張ってみました。

悩んだ末、タイトルを「僕と震災」にしました。もちろん自分が行っている活動(わたりグリーンベルトプロジェクト)についても説明しましたが、個別の事業詳細よりも僕がどうしてこういう事業をしているのか、この問題意識と大学時代の過ごし方、このあたりに関心があると思ったからです。

はじめに受講生の皆さんに問いかけてみました。

・地震の時、どこにいましたか?
・その時いた場所は揺れましたか?
・東北を津波が襲い、原発爆発を知った時、何を思いましたか?
・東日本大震災は、どのような記憶として頭に残っていますか?

僕は東日本大震災後の未来づくりにライフワークとしてコミットし続けるわけですが、この震災に「当事者」として関わることになった大きなきっかけがあります。

2004年12月26日。当時僕は高校3年生。センター試験直前でした。宇宙物理か生命科学で進路を迷っていた時期です。

スマトラ沖地震。マグニチュード9.3、津波の高さは10m、最高到達点は34m(wikipediaより)。テレビで見た映像が忘れられません。海のはるか彼方から向かってくるさざ波。と思ったら、ぐしゃりと飲み込まれた船。想像よりもはるかに大きな津波でした。縮尺がおかしく見えました。同じ地球の出来事だとは全く思えませんでした。

この時僕は、なぜ地震や津波を予知できなかったのか?と思いました。物理学の一分野のはずなのに、まったく世界の役に立っていないと。これが僕がこれから学ぶ物理学なのか、意味ないんじゃないか?そんなことを思い他学科への受験も検討したのですが、結果的に現状維持で理学部に入学(翌年物理学科へ進学)。今思えば、この時に、社会との接点が見えにくい理論系の研究者になる道はなくなっていたんだろうなと思います。

大学に入学し、授業が始まっても、スマトラ沖地震のことが頭にある僕には、どの授業にもどこか「空虚」な感じを受けてしまいました。その後も社会との接点を求めて、色んなところを旅してたまたま行き着いたのが、地方創生の文脈で最近何かと話題の島根県隠岐郡海士町でした。

そして働き始めて1年弱、一生忘れないであろう、あの時が訪れます。2011年3月11日14時46分。あの時は無我夢中で、当日離島を出て宮城に向かいました。今思えば、スマトラ沖地震の時の何もできなかった感覚というか、どこか遠い世界の出来事だったことを、今回は自分事にしたい、そんな欲求もあったのかもしれません(宮城県入りは3月19日)。今回の授業がこのきっかけを思い出させてくれました。

…。

多くの学生さんにとって、東日本大震災とは遠い世界の話であり、「当事者」という意識を持っている人は非常に稀だと思います。しかし、僕にとってのスマトラ沖地震もまさにそうでした。当事者性ゼロ。無力感と喪失感のみ。

一方で、今後も人間が言うところの自然災害は発生し続けます。南海トラフ地震もその一つ。そういった大規模自然災害が発生した時に、僕にとっての東日本大震災がそうであったように、今の学生さんも「当事者」として関わる、そんな人がひとりでも増えたら嬉しい、そんな話をさせて頂きました。

これが、タイトルの「僕と震災」の趣旨です。

※ 続く:大正大学での授業 ②:無意識にマイノリティーの人にとって生きづらい社会を更に生きづらくしていたことに気付いた。

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