2019-03-15_時と珈琲_Main_visual

「時間」に関する作品を作っています。無我の創造という論文を読んで。

いま、KOKUIKOKKU(刻一刻)というユニットを立ち上げ、
「時間」に関する作品を作っています。

不思議なもので、「プロジェクト」に関することは山のようにやってきましたが、「作品」を作れば作るほど、今までの「プロジェクト」を作る感覚とは、プロセス的にも、身体感覚的にもまったく違う気がしてきました。

今までは、「作ろう」として、作っていました。何かの課題を解決しよう、何かのアイディアを出そうなどです。でも、最近、それって違うのかもしれない、と思うようになりました。

僕が作品を作るとき、はじめは思考的に考え始めるところから始まります。「○○って結局なんなんだっけ?」「もっと、△△なったら面白いんじゃないか」といったところから考え始めます。でも、あるとき、そんな思考を超え始める瞬間が訪れます。

僕の場合は常にチームで作品を作るのですが、各自の持っているパースペクティブがぶつかりあいながら、雪山から雪だるまが転がり続けるかのごとく、「それ」はいろいろな場所にぶつかったり、飛び跳ねたりしながら、形を変えて転がり続けます。

そして不思議なのですが、あるときから、自分たちが「作っている」はずなのに、作っているものを見て、自分たち自身が、「これは何なのか?」「この意味は何なのか?」、わからなくなってしまうんです。

そして、最終的には、誰も想像しえなかった場所に到達することになります。

このプロセスを何度か経る中で、「僕たちが作品を作る」のではなくて「作品に僕たちが引っ張られているんじゃないか」、更にいうと「作品は生み出す」ものではなくて「作品は生まれてしまうもの」なのではないか、そんな感覚を持ち始めていました。

そして、その「生まれてしまうもの」は、どこかにはじめから「答え」として存在しているような感覚があります。それを探し求めていく旅が、「創作行為」なのかもしれないと感じています。

そして、その生まれてしまった作品とは結局なんなのか、その意味はなんなのか。それは、その作品に触れた人たちが「見出す」ことで、はじめてその作品が何だったのか、意味付けがなされていき、自分たちが何をやっていたのかが、理解できるようになる感覚があります。

言い換えると、「作品に導かれる」といってもいいし、「作品に引っ張られていく」、また「作品の後ろを僕たちがついていく」とも表現できるような感覚です。

そうしたら、僕たちの作品を見に来てくれた人が教えてくれた論文があります。「無我の創造」を扱った、慶應義塾⼤学総合政策学部の井庭 崇先生の論文です。

その論文をよんでいると「これは!!!」と叫びたくなるような言葉がたくさん載っていました。

パターン・ランゲージによる無我の創造のメカニズム:オートポイエーシスのシステム理論による理解

「無我の創造」とは、⾃分の⾝体や感覚を総動員して全⾝全霊で取り組むが、「こうしてやろう」という作為を⽣む⾃我を抜く創造のことである。

⼩説家村上春樹もそのときの感覚を「ぼく⾃⾝、⼩説が⾃分⾃⾝よりも先に⾏っている感じがするからなんですよ。いまぼく⾃⾝がそのイメージを追いかけている、という感じがある。」 (河合,村上, 2016, p.91-92)と表現している。映画監督宮崎駿も同様に、「だから僕は、ものを作る主体として作品を作っていたというより、ただ後ろからくっついていただけで……。」(宮崎, 1996, p.526)と語る。

「頭の中でこんな曲にしようと考えている段階は、あくまで⼊り⼝でしかない。作曲の本質は、もっと無意識の世界に⼊り込んで、カオスの中で⾃分でも想像していなかった⾃分に出会うところにある。つくろう、つくろうという意識が強いときは、まだ頭で考えようとしているのだと思う。」(久⽯, 2006, p.36)

もちろん、こんな偉大な方々と同じ感覚なんてことはありませんが...。実際には、彼らの感覚の「入り口」を今僕は感じさせてもらっているのだと思います。

また、僕は、そのためには、「空」がとても重要だと考えていて、「くうハウス」「ビジョンタイム K.U.U」を始めているくらいなのですが、この論文にも同じようなポイントへの言及がありました。

「このような無我の建物をつくるには、意図的なイメージをすべて捨て去り、 まず頭を空 くう にして始めねばならない。」(Alexander, 1979, p.437) 「それには、何も起こらないのではないかという恐怖を克服しなければ、⾃分の イメージを捨て去ることはできない。」(Alexander, 1979, p.437)

そして、同じ論文で僕が衝撃を受けた図がこちらです。

著者は、作ろうとする創造を「作為による創造」と名付け、「無我の創造」と分けて説明しています。作為による創造は、作っている人の意図(心的システム)が、創造されるもの(創造システム)をコントロールするパラダイムであると説明します。一方で、無我の創造は、まずはじめにどのような発見が選ばれるか(創造システム)が先にあり、それを創造活動に参加する人は「体験」するだけであると説いています。

これには、まじで、ビビりました。

「そうだったのか!!」という声と、「そうそう、そうだ!!」という両方の叫びが、同時に、自分の中でこだました気がしました。

ぼくはまだ、作品を作り始めたばかりだし、何かを自信もって語るほどの実績もありませんが、それでもぼくはこれから作品を作り続けることで、本論文で書いている、「無我の創造」について、自分なりの構造化・言語化に挑戦していきたいと思っています。

生まれ持った天才ではないというか、ある時から作品を作り始めた僕だからこそ、一般的な「作ろうとする想像(作為の創造)」とどう違うのか、それはどうしたら再現性を持ってできるようになるのか、そんなことを解き明かしていきたいとも思っています。

というか、僕はもともと「無我の創造」という言葉を使ってもらず、「インスピレーション」という言葉で曖昧に捉えていましたが、もともと「インスピレーションの人類学」で発表したこともあるくらい、僕のライフテーマに近いテーマです。このテーマは、近い将来、大学院などで研究・論文にしていきたいとすら思っているテーマでもあります。

ということで、今僕は、まさにいま「創作の渦中」におり、来週いま仲間たちと作っている作品を展示します。ぜひ遊びにおこしください。この作品を体験いただいて、そこからこのテーマについて議論できたら嬉しいです。

※ 4月27日、28日に、仲間たちと、KOKUIKOKKU(刻一刻)というユニットを作り、葉山で、「時間」をテーマにしたインスタレーション展示を行います。

https://www.facebook.com/events/392900827929281/


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