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刻々一刻、刻一刻。KOKUKOKUIKKOKU KOKUIKKOKU。

時間をテーマにした表現活動をはじめて早半年。4月末には、「あなただけの時間を刻むコドウ時計」という作品を作り、「時と珈琲」というタイトルでインスタレーション展示も行いました。

※その時の様子は、こちらから。

その時の一番最初に、インスピレーションが湧いてきて、2019年の1月5日に書いたコンセプト文をこの前友人たちに見せたら、すっごく面白がってくれたので、note にこの内容をアップしておきます。

KOKUIKKOKU

「何時何分に生まれました。」

助産師が時を告げる声を受けて、僕たちはこの世界に降り立つ。

1分1分、1日1日、1年1年、時を刻みながら、僕たちは成長していく。

時間。僕たちが生まれた瞬間から存在している概念。しかし、僕たちは時間とは何なのか、結局知っているようで知らない。

そもそも、この世界に時間なんて概念はなかった。ただ移ろいゆくだけ。ただ存在するだけ。この世界は、常に同じことなんてない。海を見ていても、雲を見ていても、太陽を見ていても、常に同じ瞬間なんてない。

その瞬間、瞬間、移ろいゆくもの。その瞬間、瞬間が積み重なり、いまのこの星がある。海があり、大地があり、植物があり、動物があり、人間がある。

しかし、人間はいつの日か、その積み重ねを見えるようにした。僕たち人間が生き延びることができるように。洪水といった自然災害に備え、より多くの収穫を田畑から得るために。それが時間だ。365日、24時間、60分、60秒。

はじめ、時間とは、僕たちに自由を与えるために存在していた。けれど、いつしか、この時間は僕たちを束縛するようになってしまった。僕たちはいつもいう。忙しすぎる、時間が足りない、もっと時間があったらいいのに。

時間をテーマに扱った小説「モモ」で、著者は語る。

「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」

僕たちの心は、時間を感じ取れなくなり、気が付けば、心による時間ではなく、時間による時間に、束縛されるようになってしまったのだ。言ってしまえば、時間の奴隷だ。時間が支配者で、僕たちはその世界を生きる小人なのかもしれない。

でも、時間は人間が作り出したものに過ぎない。人間が作り出したものであるならば人間が変えることもできる。時間に束縛されるなら、新しい時間の概念を作り出せばいい。あなたとわたしを縛る時間の概念から、自分自身を解き放ち、自由になれるように。

そんなこと出来るのって思うかもしれない。でもね、実際に、時間という概念はひとつではない。たくさん存在している。嫌で嫌でしょうがない宿題をする時、時間は無限に長く感じてしまう。大好きな人とはじめてのデートをする時、時間は一瞬で過ぎ去ってしまう。人によって、そのときの心の状態によって、時間の経ち方は全然違う。

また、生き物によって、時間の感じ方は大きく異なる。ネズミは1分間に600回心臓が波打ち、寿命は数年程度。ゾウは1分間に30分、寿命は30年くらい。でも、不思議なことに、哺乳類の寿命は、心臓の鼓動の回数でいうと、みんな一緒で、15億回らしい。では、心臓の波打つ回数が見れる時計があったらどうだろう。あなたが大事なプレゼンを目の前にしている時、海の前でゆっくり佇んでいる時、きっと心臓の波打つ回数は異なるはず。

僕たちは、KOKUIKKOKU という表現ユニットを、葉山という土地に作る。人間が、束縛されている時間から解放され、時間から自由になり、あるがままの世界を堪能できる、そんな世界を作っていくことが、僕たちKOKUIKKOKUのミッションだ。

時間をテーマに扱い、いまこの世界にはない、新しい「何か」を生み出していく。

都会でせましない日々に心を失ってしまっても、ゆっくりと体を癒やしながら、あなたの中にある時間を捉えなおそう。そんなことを葉山から。

合言葉は、刻々一刻、刻一刻。
KOKUKOKUIKKOKU KOKUIKKOKU。

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