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自己責任と遺伝

何かの現象が自分の人生に生じてくる時に、それが自分の責任の問題なのか、それとも自分には責任のない問題なのか……ということがしばしば問題になりますね。

この問題はとても難しいのですが、すごく簡単に言うと、遺伝要因に基づく現象はその人の自己責任では「ない」ものになります。この場合、その現象についての当事者の責任は免除されるわけですね。逆に、遺伝要因ではなく、自分で変えられるレベルの環境要因とか努力要因とかに基づく現象についてはその当事者の責任が免除されません。

例えば、遺伝性の病気になるのはその人の責任ではないので、たとえ病気になったとしても、そこに過失を認定することはできず、つまり何の罪にもなりません。この時に、そうした無辜の身で遺伝性の病気に罹患した人を責め立てることは不正となり、そうした追及者は何らかの罰を受ける可能性が高まります。

一方で、例えば、飲酒運転による酩酊状態などのような、ある種の障害的現象については必ずしもその責任を免除はされないのですね。なぜなら酩酊するためには飲酒している必要があり、その飲酒およびその後のアルコールの残った状態での車の運転が自分の意志によっているものであれば、これは自己責任となる可能性が高まり、その限りで罪になりえますから。

以上のように、遺伝性の現象についてはその現象を引き起こした主体の責任は基本的に免除されます。逆に、遺伝ではない自己責任の範囲の現象については何らかの過失が認定される余地を持ちます。

例えば、知能が半分は遺伝要因に基づき、もう半分は環境要因に基づくと考える時には、「知能」という現象の成否に関する責任の半分は当事者に負わされ、もう半分は適宜免除されることになります。

仮に、知能が完全に遺伝要因だけによって成立している場合には、知能の低い人の知能の成否に関する責任は完全に免除されます。この時には、例えば、知的障害者などの知能が低めに生まれついている人たちに関する知能という現象に関する種々の責任も全面的に免除されることになります。一方で、逆に知能が、完全に当人の力で変えられるような環境要因や努力要因だけによって成立している場合には、知能の成否に関する責任は完全に当事者のものとなり、つまり、賢くあることも愚かであることも「自己責任」であることになってきます。この場合には、愚かな人は自分の責任を果たしておらず、「努力不足」といういわゆる七つの大罪が述べるところの「怠惰」の罪を犯した罪人と認定されます。

以上のことから、遺伝要因と環境要因はどちらもがバランスよく勘案されていなければ、社会の治安などにおいてよくない効果をもたらすことが分かります。

例えば、知的障害者やあるいは知能の低い人たちも現実にはそれぞれに頑張って生きていることは自明であり、そこに取り立てて過失を見出すことは合理的ではないでしょう。その知能の低さに関する責任は当事者たちから免除されるべきであり、その限りで彼らはまったく怠惰でもないし、悪人でもないのです。

つまり、「知能」のかなりの部分が遺伝要因によっていることは自明であることになります。そうでなければ、知能の高い人だけが責任を正統に果たしている義人であり、知能の低い人は責任を放棄している悪人であることになってしまいます。そして明らかにこれは事実ではありません。現に、知能の高い人も低い人もそれぞれに良いところがあるからです。

一方で、「知能のすべてが遺伝によっている」とするのもこれは自明に誤りであると言えるでしょう。なぜなら、どんなに知能が高くても、あまりに環境が悪かったり、何の努力もなかったりすれば、明らかにその才能はほとんどの確率で開花しないだろうからです。つまり、知能には環境要因もまた関わっているということも自明であると考えることができます。

結論としては、遺伝と環境は互いに相互作用しながら、そのどちらもが知能の発現に密接に関わっているとするのが妥当であると言えます。

どちらか一方だけではなくて、その「どちらも」が大切なわけですね。この世に何の機能も持たない「役立たず」なんて一つもないのです。すべてのものがとても大切です。

もちろん「あなた」の存在だって、とっても大切ですね。この世に要らないものなんて何一つありません。

すべてのものが可愛くて、美しいのです。

すべての命が豊かにその罪を許され、それぞれの花々を咲かせられるように。祈ります。



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