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「複製技術」はいかにして広まったか

  70年代後半から80年代前半、キャラクターモデル(SF・アニメのプラモデル)は、ホビーシーンのメインストリームに踊り出た。それとは別にジワジワと台頭してきたムーブメントがある。ガレージキットだ。今回は、ガレージキット誕生に大きな影響を与えたであろう「複製技術」を軸に考える。模型をつくるだけではなく、それを複製していく文化は、何を背景に広がってきたのだろうか。


ガレージキットの原点はアングラ模型文化

 ガレージキットとは何か。いろいろな媒体でその定義が語られているが、そのプリミティブな意味合いを自分なりに整理するならば、「大手模型メーカーの製品(マスプロダクツ)に飽き足らず、模型をゼロからつくりあげ、さらに同好の士に頒布するために複製した自家製キット」となる。そして、同人活動としてはじまったものが、一部模型店やギルド的な組織による、ある種のレーベルから販売されたものが、ガレージキットとして総称されるようになった。その後の分岐拡大もあるが、筆者はガレージキット黎明期の定義をそう考える。
 書籍『海洋堂クロニクル』で、あさのまさひこはガレージキットについて、「模型オタク以外の人に対しては、“プラスチックモデル版インディーズ”と表現するのが手っ取り早いかもしれない」と書いている。音楽同様、「独立系自主制作」はガレージキットの原点であり、アンダーグラウンドな模型文化だった証だ。
 そのアングラ模型文化の開花につながった動きこそ、自家製キット頒布を実現した「複製技術」である。

特殊工作材料と日曜大工

 筆者の手元に、興味深い特集を掲載した月刊ホビージャパン(以下、HJ)がある。HJ 1981年1月号、特集は「模型作りを楽しくする特殊工作材料」だ。発光ダイオード(LED)やポリエステルパテ、シリコーンゴムやレジンなど、新しいマテリアル、しかも「特殊」なものが紹介されている。この特集のテキストからは「新キットの発売ペースのスロー化」「少品種の多数メーカーによるキット競合化」など、当時のホビーシーンの閉塞感、マスプロダクツの失速が読み取れる。それを打ち破るべく、読者のプラモデルに対するアプローチを変化させるため、「特殊工作材料」という新たな切り口を提案した企画である。

(前略)キットを素直に作るだけでは物足りない人も多いはず。(中略)それには、今までのプラモ専用工作材料にこだわっていてはだめなのだ。(中略)もう一度自分の身の回りを見る目を拡げ、他分野のものでも積極的にモデル作りに利用し、よりすばらしいモデルを作ってもらいたいという、本誌編集部からのアッピールなのだ。(攻略) 

月刊HJ 1981年1月号

 この特集で「複製技術」に関連するマテリアルは見開きで紹介されている。型取り用のシリコーンゴム、そして複製するための樹脂が数種類。どれも模型用ではないし、当時のパッケージ写真からして、一般的なコンシューマー向けの製品ではないのは明らかだ。
 では、こうした特殊な工作材料を、編集部やライター(あるいは自家製キットをつくるようなモデラー)は、どこで見つけてきたのか。そのヒントとなるキーワードが「日曜大工」だ。本特集でも、HJ編集部が「日曜大工コーナー」でジオラマに使えそうな「壁補修材」を探したという記載もある。つまり、日曜大工コーナーのある小売店=ホームセンターの存在が大きく影響している。最近では日曜大工よりもDIY(Do It Yourself)のほうが一般的かもしれないが。
 次は、少しホビーシーンから離れて、ガレージキット誕生につながるファクターを考える。特殊なマテリアルをモデラーたちにもたらした流通の変化=ホームセンターの誕生に目を向けてみる。

DIY産業とホームセンターの誕生

 「日曜大工」は、DIYで括られる「手作りによる活動」の中でも、ウッドデッキをつくるとか、棚をつくるとか、家庭内設備の製作・設置に該当するジャンルだ。
 神野由紀・辻泉・飯田豊 編著『趣味とジェンダー 〈手づくり〉と〈自作〉の近代』によれば、日曜大工という言葉は、1950年代後半以降、一般的に使われるようになった。なお、本業とは別に休日に絵を描くアマチュア挿す言葉に「日曜画家」があり、そこから転じてアマチュアが自宅の設備をつくることを「日曜大工」と呼ぶようになったようだ。日曜大工の担い手は、家庭における「お父さん」層が中心となる。
 
 日曜大工の広がりは高度経済成長期とリンクする。高度経済成長期には同一規格の画一化された住宅が大量供給され、それらに対して「自分なりの住まい」「人と違うオリジナリティ」を求める熱が高まり、日曜大工は広がりを見せた。つまり、マスプロダクツ的住宅に対するカウンターであった。

 日曜大工が趣味・レジャーとして定着すれば、関連する製品を扱う店舗も広がっていく。1969年、島根県益田市にホームセンターの先駆けといわれる「ハウジングランド順天堂駅前店(現ジュンテンドー益田店)」がオープン。1972年、埼玉県与野市に日本初の本格的ホームセンター「ドイト与野店(現コーナンドイト与野店)」がオープン。この2店舗の誕生が、日本のホームセンターとDIY産業のスタートといわれる。
 ホームセンターの登場は、従来B2B(Business to Business)の専門商材だったものを、B2C (Business to Customer)にも販路を広げて「DIY商材」に変えた。日曜大工につかう建築資材や工具などはもちろん、特殊な工作材料のシリコーンゴムや樹脂も入手しやすくなったわけだ。

 こうした背景をふまえて、ガレージキット誕生という文脈に戻ろう。ガレージキットにつながる模型の複製技術について、その情報は月刊HJから全国に発信された。雑誌で紹介された複製に必要な工作材料は、ホームセンター経由のDIY商材として全国のモデラーたちに広がっていく。ホームセンターの登場=流通の変化は、ガレージキット誕生の背景に少なからず影響を及ぼしているのだ。

地域差と東急ハンズの存在

 ただ、すべてのホームセンターがモデラーにフレンドリーな品揃えだったのか、筆者はそこに引っかかる。
 一般社団法人日本DIY・ホームセンター協会の「総売上高とホームセンター数の推移」を参照すると、全国のホームセンター店舗数は、1973年に28店、1974年に60店、1975年から2000年の間は年間約100~200店のペースで増え続け、現在は約5000店ある状態。しかし、ガレージキット黎明期の80年代前半は、ようやく1000店舗前後。チャネルとしては成長過程であり、メインターゲットではないモデラーとのタッチポイントとして、どれぐらい機能していたかわからない。
 当時の模型少年としても、自宅近所にあったホームセンター(郊外型ほど大きくないDIYショップ)には、プラモデルづくりにフィットするものは少なかった印象が強い。工具も資材もトゥー・マッチ。模型に使えるかどうか見極める視点をもつには、経験と技術が不足していたとは思うが。

 そうした引っかかりを解消すべく調べを進めていくうちに「東急ハンズ」の存在を浮かびあがる。前述の『海洋堂クロニクル』に詳しい記載がある。東京でシリコーンゴムとFRPによる複製が主流だったことに対して、関西ではバキュームフォーム(加熱して柔らかくなったプラスチックの板を吸引して型に密着させる技法)が一般的だった。その背景について海洋堂の有名原型師・ボーメは、「それはたぶん、地元エリアに東急ハンズがあったかなかったかの差ですよ」と語っているのだ。
 
 地域差、そして東急ハンズ(現ハンズ)の存在。日曜大工とホームセンターに近い文脈でありながら、特異なスポットとして、より直接的に模型の複製技術に影響を与えたチャネルが東急ハンズだったのだ。

「手の復権」が整えた環境

 東急ハンズは、東急不動産の子会社としてスタートした。1976年に藤沢店、1977年に二子玉川店がオープン。そして、1978年に、「素材と道具と部品の専門店」として渋谷店がオープンする。東急ハンズ・編『東急ハンズの本』によると、渋谷店で掲げたコンセプトは、「手の復権」。大量生産大量消費、マスプロダクツがあふれる画一的な生活に問題意識を持ち、「自らの手でつくること」で消費者の主体性を取り戻すのが大きな狙いだった。
 
 この「手の復権」は、画一的な住居に自分らしさを求めた「日曜大工」の発想にも通じる。実際、日曜大工の担い手が「お父さん」層だったように、東急ハンズもメインのターゲットを中高年の男性に設定。男のための「素材と道具と部品の専門店」だった。
 しかし、渋谷店は想定外の客層から支持を得る。前述の『東急ハンズの本』によれば、渋谷に遊びに来ていた若者層が押し寄せてきたという。それまでどこで売っているか知らなかったもの(DIY商材)が整然と並ぶ。彼らには東急ハンズがバラエティーに富んだおもしろい店に映った。その中に当然、マニアックなモデラーもいたはずだ。

 HJ編集部は渋谷区代々木にあり、東急ハンズ渋谷店も近い。また、ライター陣も多くは東京在住だっただろう。ボーメの推測どおり、東急ハンズはモデラーたちが複製につかえるマテリアルを入手しやすい場として機能した。そして、メディア(HJ)もまた最新マテリアルの情報を探し出す場として活用した。つまり、東急ハンズは、マスプロダクツへの問題意識をもったモデラーたちが「次の一手を打つための環境」を整えたのだ。

問題意識の連鎖が新たな市場を生む

 前述の月刊HJ 1981年1月号には、特集外にも注目すべき記事が掲載されている。小田雅弘による、絶版キットのカワダ製「ノーチラス号」を復活させた記事だ。シリコーンゴムで絶版キットの型を取り、FRPで「模造品」として複製している。今ではNGな作例だろうが、当時の複製技術に対する可能性を感じさせる記事だ。「絶版キットを持っている人を見つけ、許可がとれれば型をとらせてもらおう」という発想が、自家製キットによるモデラーの交流を想起させる。とてもガレージキット的だ。
 
 今回はガレージキット誕生につながる「複製技術」をキーワードに、「そのマテリアルがどうやって一般化したのか」「どうやって模型メディアの文脈にのったのか」などを探ってきた。模型から少し離れた分野を渉猟してきたが、いみじくも「マスプロダクツへの問題意識」が共通項としてあぶりだされた。日曜大工も、東急ハンズも、もちろんHJの特集「特殊工作材料」も。
 
 マスプロダクツへの問題提起。販売チャネルの誕生と流通の変化。それらをふまえた新たなマテリアルの模型への応用と複製技術の広がり。その立役者、東急ハンズの存在。こうしたパーツがつながって、ガレージキット誕生の道筋が形づくられてきた。

 問題意識の連鎖が、めぐりめぐってホビーシーンにガレージキットという新たなクリエイティビティとビジネスをつくりだしたと筆者は考える。突然変異でガレージキットが誕生したわけでない。ビジネスの背景には別のビジネスがあり、その積み重ねが新たなビジネスを生むのだ。


〈参考文献〉

  • 月刊ホビージャパン 1981年1月号(ホビージャパン)

  • あさのまさひこ 著 『海洋堂クロニクル―「世界最狂造形集団」の過剰で過激な戦闘哲学(オタク学叢書)』(太田出版)

  • 松井広志 著 『模型のメディア論: 時空間を媒介する「モノ」』(青弓社)

  • 神野由紀・辻泉・飯田豊 編著 『趣味とジェンダー 〈手づくり〉と〈自作〉の近代』(青弓社)

  • 東急ハンズ 編 『東急ハンズ』(東急ハンズ)



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