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彼女の願い。

地上を照らす太陽が、その身体を地平線の向こうに隠すころ。
彼女は高く高く、穏やかな空へと昇っていく。

彼女には、夜という名前の友だちがいた。
夜は、彼女のことが大好きだった。
あの力強い太陽のように、彼女にはみんなを照らすことはできない。
だから優しい優しいその友だちは、いつでも彼女が輝くことを、手伝ってくれた。
自らを、漆黒の闇に染めることによって。


あの川を渡りたい。

煌々と、穏やかな光を灯しながら、ある日彼女は夜にそう言った。
キミは空を旅する運命だ。
夜はそう思ったけれど、それは口には出さなかった。
彼女の放つ柔らかな光が、夜は大好きだったから。
それはむずかしい注文だね、なんて言えない。
ご機嫌を損ねてしまったら、彼女はきっと、風を従え、遠くへ行ってしまうから。
雲を従え、その身体を隠してしまうから。

ほんとうは、夜は闇が嫌いだった。
夜が自らを漆黒の闇に染めるのは、彼女のためだったから。
自らが闇に染まることで、光を得る。
そんな矛盾が、夜は好きだったから。
だから、彼女の光を失うわけにはいかない。
夜は、考えた。

太陽が眠りに落ちてから目覚めるまでの間、夜はみんながその時間を穏やかに過ごせるように、目を光らせていた。
ほんらいそれは彼女の役割だったけれど、彼女はいつもまんまるではいられなかったから、夜がそれを肩がわりしていたのだ。

でも、みんなが夜の言うことをちゃんと聞いてくれるわけではなかった。
やんちゃな風は、太陽の言うことさえ聞かず、いつも自由だった。
気ままな雲は、仲良しの風に揺られ、空を旅するのが好きだった。


夜は彼らに、彼女の願いを伝えた。
はるか下に流れるあの川を、彼女は渡りたい。
次に彼女がその身体をまんまるにして、柔らかな光を放つとき。
何とか彼女に、あの川を渡らせてあげたい。

そんなことできるわけがないと、彼らは口々に言った。
彼女は空を旅する運命だ。
地上には決して降りることはできないと。
夜は必死に自分の考えを説明したけれど、彼らは聞いてはくれなかった。
ぴゅーんとひと吹き。
風は雲を連れて、行ってしまった。

でも、夜は知っていた。
風も雲も、彼女のことが大好きだということを。
彼女を喜ばせたい。
そのためならばきっと、彼らも協力してくれるはずだ。
夜は彼らを、信じていた。


そして、そのときがやってきた。
まんまるで、艶があって。その夜は、彼女が1番美しく輝く夜だった。
煌々と、穏やかに。
夜を照らしながら、空高く昇る。
夜は信じていた。
風と雲が、力を貸してくれることを。

ねえ、下を見て。

夜は、彼女にそう言った。
ピン、と張りつめた、真っ黒な鏡のような川面に、まあるいまあるい明かりがひとつ。
それはとても美しかった。
明かりは、こちらの岸からあちらの岸へと、ゆっくりゆっくり渡りはじめていた。
夜が、明るさを増す。
空の明かりと、川面の明かり。
彼女の柔らかな光が川面に反射して、夜を照らす。
川面に映る彼女は、空の彼女とまったく同じ、まんまるだった。
風は息を止め、その美しさに見入った。
雲は川面の彼女を覆ってしまわないように、遠くからそれを見つめた。
夜の、音が消えた。
川面の彼女がゆっくり対岸へと渡りきるのを、みんなが静かに見守っていた。


彼女の願い。
それは、対岸へ美しい夜を届けることだった。
暗闇だけではない夜。
風に吹かれるだけでも、雲に覆われるだけでもない、美しい夜を。

夜は闇ではないということを。
夜には明かりが灯るということを。
彼女はそれを、みんなに伝えたかった。

そして、対岸にそれは訪れた。
風は優しくそよぎはじめ、雲はその風に漂うように揺られ、彼女の柔らかな光をふわりと反射させた。
夜はその闇を一層深め、大好きな彼女をより輝かせた。
対岸へ、みんなで美しい夜を届けたのだ。

夜は、願った。
すこしでも、彼女の明かりが届くように。
すこしでも、彼女の思いが届くように。
太陽が目覚めるそのときまで。
夜はさらに深く、濃く、自らを闇に染めた。

やがて東の空が白みはじめ、薄い桃色から、柔らかな橙色に変わった。
その橙色は次第に熱を帯びて、燃えさかるように濃さを増す。
夜が、終わっていく。


眠りに就くころ、夜は思った。
彼女の思いを、もっと届けたい。
美しい明かりの灯る夜を、もっと届けたい。
目を閉じると、暗闇の中に、まんまるな形をした彼女が穏やかな光をたたえて漂っていた。
次の夜に、この美しさをどこに届けよう。
そんなことを思いながら、夜は深く深く、眠りに落ちた。







おしまい。









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