二十一世紀の内省ソング

音楽を学問してみたい、と思う日が来るなんて、自分でも驚きだ。いや、学問に触発された、ただの自分語りにしかならないかもしれないが…。

久しぶりに、雑誌「現代思想―《恋愛》の現在―」を開いて、目に飛び込んできた中條千晴さんの『二十一世紀のラブソング』という論稿を読んだ。そこで、自分の音楽の好みについて内省する機会を与えられたように感じた。

特にハッとしたのが、「支える」という概念はラブソングにおいて重要
ラブソングにおける「僕(俺)」と「君(お前)」(p184)
という指摘だった。

例えば、私が愛して止まないHallosleepwalkers(略してハロスリ)の歌詞の中にも、僕や君といった歌詞は出てくる。しかし、ハロスリの歌詞世界の中では、僕と君は支え合う関係にならない。

夜の鯨は僕に言う『やあ、また会ったね』(♪天地創造)

閉口して僕は待っていた薄暗い部屋で一人きり(♪午夜の待ち合わせ)

いつから君と旅をしていたんだっけ 理由も答えも思い出せなくて怖くなった (♪新世界)

軋んだ車輪の泣き声は冬の駅によく響いて
本当の僕の泣き声をかき消してくれた (♪23)

君の立派な創造理念と僕の勝手な妄想理想を
混ぜて捏ねて焼いて少し干して炒めて煮詰めて(♪円盤飛来)

前々から、ハロスリの曲はラブソング感がないのが良いと漠然と思ってはいた。その感覚はどこから来るか。ラブソングに特徴的だと筆者が挙げたように、支え合う二者の関係性が描かれないから、ハロスリの曲はラブソング文脈に回収されないのではないだろうか。そして、それこそがハロスリの歌詞世界を特徴づけるものなのではないか、と私は言いたい。

初期の頃から、ライブ活動休止期間を経て、活動を再開した今に至るまで、ハロスリの楽曲はどれも内省的で、誰かと誰かの関係性を描くことがほとんどない。それが故に聞き手は、自分と重ねたり、詞に使われた語句から様々な連想を膨らませたりしながら、楽曲を聞くことができる。

世の中には、恋愛以外の物事がいくらでもあるはずなのに、好むと好まざるとに関わらず目や耳に飛び込んでくるテレビドラマや音楽から、恋愛的要素を受け取って時に辟易してしまう私には、これが心地良かった。

星野源さんやヒゲダン―それこそラブソングを取り上げた上記の論稿にも取り上げられている方々―の楽曲も好きじゃないか、支え合ったりしてるじゃないか、という指摘はその通りだし、好きな映画ジャンルはと聞かれたらラブコメと答えることにしている人間なので、恋愛要素が全くダメ、受け付けない、というわけではない。

とはいえ、星野源さんにもヒゲダンにも、支え合うだけじゃなく、私は内省的なところを感じ取るし、そこを好ましく思っているからこそ、聞いている節がある。

以上の理由から、いわゆる恋愛至上主義と呼ばれる物に対して食傷気味になった時に、ハロスリと内省ソングの旅に出ることを、私はおすすめする。


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