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ポーランド旅行 vol.1アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所

スウェーデン留学も3ヶ月半が経過しました。

11-12月にかけてポーランド3泊4日の旅行をしています🇵🇱実はポーランドに来た目的の1つは、アウシュヴィッツ収容所を訪問することでした。今回はアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所の日本人公認ガイドである中谷剛(なかたに たけし)さんにご案内いただきました。

※今回ガイドいただいた内容を元に記事を書いていますが、記憶を辿って書いているため一部相違がある可能性があります。

アウシュヴィッツ収容所

入場棟からすこし歩くと、教科書でもお馴染みのゲートが現れました。“Arbeit macht frei“ =『働けば自由になる』第二次世界大戦中にポーランドに侵攻したドイツ軍が、ポーランド軍の兵舎を利用してオシフィエンチムにアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を作りました。

収容された人々が寝ていた建物
アウシュヴィッツ収容所に収容された人々の内訳

学校で学習した知識では「アウシュヴィッツ=ユダヤ人」というイメージがとても強いですが、実は最初にアウシュヴィッツに収容されたのは、ヒトラーの政治を批判したポーランド人の政治家や教師、聖職者でした。収容された130万人のうち、110万人がユダヤ人、14-15万人がポーランド人、23,000人がロマ/ジプシー、他ソビエトや他民族でした。

貨車で収容所に運ばれてきた人々
親子で連れられたユダヤ人
ガス室で亡くなった人を屋外で焼却
看守に見つからないように撮られた写真

3枚目の写真は、ガス室に送られて亡くなった人を焼却している様子です。焼却しているのはドイツ人ではなく、ガス室に送られることなく強制労働に従事するユダヤ人です。ドイツ人の精神衛生を保つため、ユダヤ人にさせていたとか。

4枚目は、収容されようとしているユダヤ人が監視の目を盗んで撮った写真です。ガス室に送られる前、シャワーを浴びると騙されて服を脱がされています。

ガス室の構造
地下ガス室の外観


強制収容所に到着すると、すぐにドイツ人医師による「選別」が行われます。主に体力がある成人男性は強制労働、力の弱い女性子ども、高齢者はガス室と分けられます。この選別の時点で、全体の7-8割がガス室送りになります。

アウシュヴィッツにはひとつだけガス室が残されていました。地下の空間に誘導し、シャワーを浴びるという名目で服を脱がせた後、天井の穴からツィクロンBというガス(粒状)を投入しました。10-15分ほどで死にいたり、その後ガスを抜いて隣の焼却場で死体を折り重ねた状態で焼却していました。実際のガス室に入りましたが、中は暗く壁は冷たいコンクリートでした。空間こそ広々としていましたが、そこにはぎゅうぎゅうに人々が詰め込まれ、ガスに苦しみ亡くなっています。茶色の煙突は焼却炉と繋がっています。

ガス室で使用されたツィクロンB
ツィクロンBが入っていた缶

大量虐殺に使用されたガスは、本来シアン化水素を主成分とする殺虫剤でした。ツィクロンBは、昆虫に対してより哺乳類に対しての方が明らかに殺傷力が大きいという特徴を持っています。

大量の靴
大量の食器類
障がい者達が持ち込んだ松葉杖や義足
大量のスーツケース
持ち主の名前や住所が書かれている

収容所に強制的に連れてこられたユダヤ人達は、スーツケースに財産をいれて持って来、それを没収されていました。銀行口座に入ったお金や土地の権利証などすぐに利益になるものはドイツ軍に即座に使われていました。その他多くは、衣服や食器、タリットというユダヤ教徒が身につける布製のショールでした。財産が入っていたスーツケースの多くには、本人の名前や住所が書かれています。先程も記述した通り、約8割の人がすぐにガス室に送られ亡くなっていたため、どこの誰が亡くなったのか、記録すら残っておらず犠牲者をすべて把握することは不可能だろうと言われています。

ナチスドイツによって没収されたのは、身の回り品だけではありませんでした。囚人は髪の毛をすべて刈り取られています。それらはすべて箱に詰めて輸送され、布製品に加工されていました。ここからユダヤ人への扱いの実態が明るみになるのではないかと思うかもしれませんが、髪の毛を加工しているのもユダヤ人だったため事実は長期に渡り隠蔽されていました。(撮影NGでしたが、山のようになった様々な色の髪の毛が展示されていました。)

生存者が描いた絵
囚人たちのベッド

実は、ナチスドイツは収容されたユダヤ人の中でも階級の区別をつけていました。生存者によって書かれた絵の右側に、棒をもった大柄な男性がいます。彼もユダヤ人として拘束された身でありましたが、ユダヤ人の監視役となっていました。主に犯罪者や暴力的な人が選ばれていたそうです。こうして、迫害されている人の中にも監視しあい、時には監視役が他のユダヤ人の恨みを買い、殺されてしまうという状況が作られていました。

初めはベッドではなく、藁の上で寝ていました。アウシュビッツ収容所は世間に認知されていましたが、当時調査団に進んだ技術であった水洗トイレやシャワー設備をみせて、あくまで囚人を収容しているだけで残酷な事実は隠されていたため容認されていました。なぜユダヤ人が特定して迫害されていたのかは後半で詳しく書きます。

監視塔と有刺鉄線
『死の壁』

アウシュヴィッツ収容所は資料館としての役割と同時に、犠牲者遺族の追悼の場所にもなっています。『死の壁』では、ナチスドイツに抵抗した人々が銃殺されていました。旗は囚人服の縞模様と同じで、現在では抵抗のシンボルとなっています。

ビルケナウ収容所

アウシュヴィッツからバスで5分移動すると、ビルケナウ収容所も見学することができます。

ビルケナウ収容所の施設
柵で隔たれた収容所
ユダヤ人を乗せていた貨車

アウシュヴィッツに比べ、ビルケナウはとても広いのが特徴的でした。2枚目の写真をよく見てみると、建物の煙突だけが残されているものがたくさんあります。これは終戦後、戦争によって被害を受けたポーランドが街の復興のため建物を取り壊し、その木材を利用したためです。

貨車によってヨーロッパ各国からユダヤ人が運ばれ、収容所内に入ります。線路は収容所中央を走り、その左右に男女の収容エリアが分かれています。貨車は元々人を乗せることを想定したものではないため、窓ひとつありません。

破壊されたガス室

ビルケナウにもガス室がいくつかありましたが、それらはすべて破壊されています。第二次世界大戦に負けそうな境地に立たされたドイツは、休戦・停戦を望んでいました。しかし、虐殺の事実が明らかになれば戦後の協定で不利な立場になるため、証拠となるガス室はすべて破壊してしまいます。


実際に収容された人達が寝ていた場所も見学させていただきました。木造の建物の中に入ると、まず左右に看守の個室が一つずつ配置されています。奥に進むと、簡素な作りの寝床が見えます。個人的には棚のように見えたほどでした。1つの寝床の幅は成人の腕を広げたくらいで、そこに3人が寝ていたそうです。3段に分けられ、寝るのに十分なスペースとは言えません。もちろん寝床以外の場所はありません。当時の冬のポーランドは-20℃に達することも珍しくなく、暖房設備がなければ死んでしまうほどです。しかし、収容所の施設は十分な暖房設備が備えられておらず、寒さに耐えなければなりませんでした。

なぜユダヤ人が標的になったのか

そもそも、なぜユダヤ人がナチスドイツ迫害されることになったのでしょうか。

その始まりは、ドイツの「優生民族思想」からです。当時、様々な思想家たちは、アーリア人は人種的にも文化的にも他の民族集団よりも優れているという考えを推進しました。「アーリア人」とは、元々はヨーロッパのほとんどの言語とアジアの一部の言語の含めた多様な関連言語を話していた人々の集団を指す言葉として使われていました。しかし、時を経て、この言葉は新しい違った意味を持つようになりました。

19 世紀末から 20 世紀初めにかけ、アーリア人は他の人種よりも優れていると主張する一部の学者などにより、神話的な「人種」に変えられました。ドイツでは、ナチスがドイツ国民を「アーリア人種」の一民族として賛美し、一方でユダヤ人や黒人、ロマ族やシンティ族(ジプシー)を「非アーリア人」として貶める、この間違った概念を推進しました。

ナチの党員は、ドイツ人は「支配人種」に属しているという考えを支えるために、この概念を利用しました。さらに、彼らはユダヤ人を「非アーリア人」の最も代表的な民族とし、ユダヤ人がドイツ社会に対する主たる人種的脅威と特定しました。これがナチ党がユダヤ人を迫害するようになった主な流れです。

その思想を反映する代表例が、「職業的回復法 アーリア条項」です。これは、非アーリア人種や政治的に信用できないものを公務員から追放する旨の法律でした。かの有名なアンネ・フランクの父は、この法律によって職を失ってしまいました。

ナチ党による『ユダヤ人』の定義付け

そもそも、どのような人を『ユダヤ人』とするかも曖昧でした。

ヒトラー内閣内務大臣ヴィルヘルム・フリックは、「ユダヤ人とは『宗教』ではなく、『血統』『人種』『血』が決定的要素であり、ユダヤ教徒でない者にも『ユダヤ人性』を追求しうる」と述べています。先程の公務員法によれば、祖父母の一人がユダヤ人であれば、そのドイツ人は「非アーリア人」に分類することができました。そもそも自分をユダヤ人と認識していない人でも、ナチ党に強制収容され殺害されていたということです。収容対象である「ユダヤ人」は、あくまでナチ党独自の判断だったのです。

過去のホロコースト実態からみる現在の世界

「ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)が起こった要因は、必ずしもナチ党やヒトラーだけではない。当時の社会の状況から、いつ起こってもおかしくない出来事だった」とガイドの中谷さんはお話ししてくださいました。

当時、ドイツを含む世界中の国々で世界恐慌による貧困の波が襲っていました。そんな状況の中では、今日一日を生きるのが精一杯で他人を気遣う余裕もない、というのが現実にありました。またホロコーストが起こっている最中でも、逃げ隠れるユダヤ人を難民として保護しようとした国はほとんどなく、多くが傍観者でした。

これは、数年前のコロナウイルスパンデミックでも同じような状況だったと捉えることができます。感染防止策として多くの店に休業要請が出された中、営業しているお店に対して批判するなど、コロナの自警団が現れていました。国民同士で監視し合う状況は、監視役の囚人が囚人を罰する状況と同じで、自分優先になり他人同士で助け合うという余裕がなかったことを示していると思います。


過去の最悪な歴史を繰り返さないためには、現在にも同じようなことが起きる条件が揃っていないか?と日常から世界情勢に目を向けることが重要なのではないか、と中谷さんは語っておりました。世界の動きを決定するG7や世界政府機関は、私たちが投票して選ぶ政治家によって運営されています。私たちが大きな変化をもたらすことはできないかもしれませんが、小さな行動や意識の変化が戦争のない世界を作ることは確かだと思います。

実際に足を運んで、お話しを聞けたことをとても幸運な機会だったと感じました。今回の訪問を忘れずに記録しておきたかったため書いたのですごく長いものになってしまいましたが、現地に行けない方にも少しでも届いたら嬉しいです。今回ガイドをしてくださった中谷さん、一緒に来てくれたレイ、ともこ、かのん、ありがとうございました!

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