あれから9年

2011年3月11日14時46分

私は当時仙台でエステの専門学校に通っていました。
あれは忘れもしない卒業式の3日前。
ランチの後のアロママッサージの実習中
その頃地震が多かったので、『またか』なんて気にも留めずにいました。
「それにしても長いね」なんて話をしていたら急に轟音とともに揺れが大きくなり、ベッドの上にいた私はその揺れと恐怖からベッドにしがみつくことに必死で動けずにいました。

アロマオイルが入っているガラスの器が割れる音や更衣室のロッカーが倒れる音が聞こえ、これは普通の地震ではないと、すぐにわかりました。
そんな中でも先生がみんなを落ち着かせるように声がけをしながら私を支えてくれて、ベッドの下におりることができました。

揺れがおさまって急いで外へ出ると周りのビルの人たちも外に出てきていて、近くのデパートの看板が落ちていたり、窓ガラスが割れていたり、朝登校したときに見た風景とは全く違う場所のように目に写りました。
携帯電話でニュースをチェックしていた同期が今まで聞いたことがない震度を口にし、宮城県だけではないことも教えてくれました。
『まるで映画の世界みたい』なんて他人事のように思いながら、『このまま死んでしまうのかな』となぜか冷静に死を意識しました。

揺れが落ち着いたので荷物を取りに急いで戻って近くの小学校へみんなで避難しました。
そこで人数確認や家族・友人の安否確認をし、避難訓練のようだと、またしても他人事のように感じていました。
もしかしたらショックな出来事が起こると人は現実逃避のように客観的に物事を捉え、冷静になるのかもしれません。

無事を確認し、解散すると、友人が一人で帰るのは嫌だからと一緒に私の家に向かいました。
その途中雪が降ってきて、まるで悲劇のヒロインのようだと思いました。

マンションへ着くと当然のことながら、エレベーターは止まっていて、階段で9階にある部屋へ向かうと、玄関のドアを開けた瞬間から、下水のような臭いが鼻につきました。
中に入ると冷蔵庫が倒れていて、冷蔵庫の上に乗せていた電子レンジが落ちて付属のターンテーブルが割れて飛び出ていて、テレビも倒れて画面が割れていてベッドがいつもと違う場所にありました。
引っ越しの準備をしていたので幸い被害はその程度でしたが、そうじゃなかったらと考え…ないようにしました。

このまま部屋にいても生活できる状態ではなかったのと、友人と一緒だとしてもその部屋にいるのは怖かったので、避難所になった近くの小学校へ向かいました。
道中のコンビニは電気がついていない中でも人で溢れかえっていて行列をなし、陳列棚にはほとんど商品は残っていませんでした。

小学校の体育館に着くとやはりたくさんの人。
日が落ちて暗くなっても電気はつかず、ストーブも数台しかなかったので、友人と身を寄せあっていました。
運良く友人の家族が迎えに来てくれることになり、2~3時間待機。
いつ充電できるかわからないので、携帯電話はなるべく使わないようにしていました。
暗闇に目が慣れた頃、到着の連絡がきたので一緒に車に乗せてもらい、友人の家へ向かいました。
しかし、道路は渋滞でほとんど動けない状態。
道中には陥没している道路や壊れてしまった車などもありました。
30~40分で行ける距離を2~3時間くらいかけて進みました。
到着したのは深夜でしたが、友人の家族は温かく迎え入れてくださいました。

東日本大震災の翌日

朝になり、改めて友人の家族に挨拶。
到着したときは真っ暗で見えなかった時計が地震のあった14時46分で止まっているのを見て、何とも言えない気持ちになりました。

友人の家族にお世話になるわけにはいかないと、翌日は自分の部屋へ戻りました。
しかし、ライフラインが止まり余震が続く中、一人でいると余計なことまで考えてしまい怖くなったので、必要なものを全て持ち、避難所へ向かいました。

避難所生活

最初に来たときより人は少なくなっていて、それぞれのスペースができていたので、配布している毛布をいただき、自分の場所をつくりました。
私が住んでいた大町というところは中心地で高速道路も近かったので救援物資がほぼ毎日届いていました。
それでも満足な食事はできません。
主食はほぼカンパンで金平糖がついてるものを貰えたときは嬉しくなりました。
バナナが配られた時は至福のときで、いつもよりゆっくり食べたのを覚えています。
炊き出しがある時はみんなで整列し、久しぶりの暖かい食べ物に心が躍りました。

一番困ったのはお手洗いでした。
水が流れないのでプールからバケツで水を運び、それでトイレの中を流していました。
衛生面は良くなかったと思います。
手が洗えないのでアルコール除菌やウェットティッシュを持ち歩き、それで手を消毒している気になり、歯磨きも頂けるペットボトルの水が決まっていてもったいないので、少量の水を使うか洗口液を使用していました。
何日か経つと徐々にライフラインが復活し、近くのお店も営業し始めて少しずつ生活しやすくなっていきました。
そこでテレビのニュースも見られるようになり、地元の福島県で原発の問題が起きていること、震災当日の津波の様子などを知り、胸が締め付けられました。

心配になり母親に連絡してみると、私の実家は震災の影響は少ないけれど、福島県に来ても仕事はないし、福島県のナンバーで県外に行くと石を投げつけられたり文句を言われたり、風評被害がすごいから戻って来ないで東京に行きなさいと言われました。
避難所にいるときはわからなかった風評被害が家族にも降りかかっていることを知り、とても悲しくなりました。
そして自分の無力さを感じました。
そこで

自分には何ができるのだろう
今まで自分は何がしたかったのだろう
好きなことしたいことは何だろう

と振り返り、考え始めました。

電気が通ってから、決まった時間にテレビを見られるようになりました。
最初についているのはいつもニュース。
私は正直見たくありませんでした。
見ても明るい情報は取り上げられていないので、不安が募るばかり
ネットでは不謹慎などと言われていたこともありましたが、私はACのCMの方がいくらか気分が良かったです。
『ぽぽぽぽーん』に癒されました。
きっと現実逃避をしたかったのだと思います。
私がいた場所より震災の影響を多く受けた場所の方が多かったと思いますが、私がいた場所でも被災者という実感はありました。
そんな中ニュース以外の番組を見て、心が救われた気がしました。

私が今までなりたかった職業などを振り返ってみたとき、ヘアメイクさんやスタイリストさんなど芸能界に通じているということに気づきました。
内気な性格だったので表に出てみたいという気持ちはありましたが、それを口に出すことはありませんでした。
しかし、東日本大震災を経験して、いつ何が起こるかわからない今、やりたいことをやらなければ絶対後悔すると思いました。
そして、震災で気分が落ち込んでしまった中で希望を見出だしてくれたのがテレビに映った芸能人だったので、私も芸能界へ入り、その時の私と同じように気分が落ち込んでいる人たちに希望を与えたいと思いました。
そして震災で感じた無力さは芸能界に入ることで影響力がついて支援に役立てるのではないかと思いました。
それが今の活動をしていく中での原動力となっています。

上京

引っ越し日が決まり、高速バスが運航できるようになったので予定より早めに上京しました。
数日間ホテル生活をして、仙台とのギャップに悲しくなりました。
避難所にいたときは1日1日を大切に生きていたので、まるで止まることを知らないように、当たり前のように水も電気も使える状況にショックを受けました。
温かいお風呂にも入れるし、どこへ行っても食べたい物が食べられるし、コンビニへ行けば品薄とは無縁で欲しいものが買える。
何も不自由がありませんでした。
自粛ムードが高まっていたことをあまり良く思っていなかったのですが、その状況を目の当たりにしたときは、原発は東京のためにつくられたものなんだから、もっと東北に支援物資を送ってほしいと無責任にも思ってしまいました。

現在

大人になり、わかることが増えていく中で、この体験はとても辛いことでもありましたが、貴重な経験をしたと思っています。
今の私には東日本大震災のおかげで学んだことがたくさんあります。
後悔しない生き方や考え方、災害時の過ごし方、人のことを考えることなどです。
現在でも辛い思いをされている方はたくさんいらっしゃると思います。
そして、まだまだ復興には時間がかかります。

私たちみんなにできることはこの出来事を忘れないことなのではないでしょうか。
そこから何か自分にも出来ることが見つかってくると思います。

最近は新型ウイルスの話題で持ちきりになっていますが、あの日の教訓が全く生かされていないことにとても悲しく感じています。

品薄になるほどの買いだめ
何かを隠すためについた嘘で生じた被害の拡大

見えない恐怖と戦っているのは、当時も今も変わっていないです。

でも当時のことを忘れていなければこんなことにならなかったはず。

平和な未来が訪れますように。

健康第一で頑張りましょうね

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