短編小説 『溺れ』

 呼吸を止めれば世界が終わる。そんなことは誰でも知っている。自分の世界が崩壊するのだ。息ができなくて、吸えなくて、吐けなくて。呼吸をすることの重みを、身体全体が痛感する。

 自分が溺れていることを意識するのは、ようやく生存本能が目覚める時だ。このままじゃいけない。このままじゃ、世界から切り離されてしまう。そういった恐怖が全身を駆け巡った時に、それは恐怖となって襲いかかってくる。
その恐怖は永遠よりも長い。きっと自分の生涯よりも、その時間は長かっただろう。これ以上の苦しみがあるのかと、啓一は思う。そして実際、それ以上の苦しみを感じた事はない。

「生きていることそれだけで、もうこれ以上の奇跡はない」

 店内にかけられている音楽の、そんな歌詞を聞いて、啓一は小さな悲しみがポケットの中にあることに気付く。聞こえてこなければ分からなかった悲しみだ。世界は凍てついている。残酷さを滲ませるのはいつだって人間たちだ。そしてその中に啓一もいる。その現実感がなかなか掴めない。被害者意識は良くないと漠然と分かっていても、それがひっくり返った経験がない。いつも傷ついてばかりだ。

 店内の時計を確認する。二十二時。コンビニというのはきっと一人ぼっちだ。夜でもお構いなしに光り続けている。目立とうとしている。そうして人を集めて、それが人気の証だと勘違いしているのだ。本当はいいように使われているだけ。そのことを知らずに今日もまた光り続けている。

 啓一は、菓子類の並んでいる棚の前で周囲を窺っている。もちろんしゃがみ込んで靴紐を結びながら。蝶々結びは難しいな。そうやって手間取る中学生を演じながら、自分の周囲を見渡している。

 ひとけのないコンビニ。それでも雑誌棚には、高校生と思しき男と、中年の男性が二人。全員が立ち読みに熱心だ。その姿が啓一には奇妙に映る。そこに突っ立っている人たちは、本当に生きているのだろうか。読みものをしているその目に宿っているのは、きっと退屈。ポケットには収まらなくて、周囲に撒き散らしている。そんな寂しい姿を曝け出して、恥ずかしくないのだろうか。孤独から生まれる羞恥心をよくよく分かっている啓一には、大人の世界がひどく歪んだものに見えている。成長とは恥を塗りたくることなのだろうか。

 店員はやる気と愛想を失くしてしまっている。啓一にとっては都合が良かった。職業意識から離れていればその分だけ、啓一には良い風向きとなる。もっとも啓一自身、職業意識というものは分かっていない。そんな大人を見たことがないから。実際見たとしても、啓一はその奥にある、ポケットに隠した感情を確かめたくなることだろう。

 蝶々結びももう飽きた。店員や客を、自分でも呆れるほどチェックして、啓一は立ち上がる。この時間帯にひとけがないことは知っている。ここは「お気に入り」だから。

 防犯カメラというのは、最初から悪事を働こうとしている人間には何の意味もない。覚悟が違うから。防犯カメラを意識して思い留まれるようなら、最初から悪事なんて犯さなければいい。それだけまだ、余裕があるということだから。

 ギリギリなのだ。ギリギリを生きていれば、思い留まることはない。ためらいがあったとしても、それは犯すタイミングがまだだ、というだけだ。手を染めるそのことをやめようとは思わない。

 罪悪感は、盗んだ商品を数えるのが面倒になった時には、既にあってないようなものだった。むしろ最初から持っていなかったという方がしっくりくる気がする。

 罪悪感があったとして、それは誰への罪なのか、誰に対して抱く悪なのか。社会通念に照らせばコンビニに、ということになるのだろうが、そんな社会的に決められた約束事を確認したいわけではない。世の中が複雑に出来ていることは、中学二年にでもなれば分かってくる。そしてその複雑な、絡んで解けそうにないところに、価値観に縛られていない人間の本性が隠されているのだろう。

 そして僕は、それを解いてしまったのだ。きっと溺れている時に、がむしゃらに手足を動かしていたせいで、強く絡み合っていたそれが、解けてしまったのだ。万引きという犯罪以上に、啓一はそれを解いてしまったことを後悔している。出来れば絡まったままにしておきたかった。そのままで、絡まっていて大変だなとやり過ごしたかった。

 もしかしたらやり過ごせていたかもしれない。もう少しマシになっていたかもしれない。今も、弟が生きていたら。

「航のせいにするのは卑怯だ」

 心の中で呟いた。生きていると言い訳ばかりが頭に浮かぶ。中学生でこれなのだから、大人になったらもっと酷くなるのだろう。啓一の未来予想図はいつだって陰に覆われている。

 少なくとも自分よりは成長しているであろう大人たちの視線が自分に向いていない事を再度確認して、啓一は商品に手を伸ばす。それは棒状の菓子。金額にすれば百円にも満たない。すかさずポケットに入れる。すぐに店外に出てはいけない。それだと怪しまれるから。しばらくは商品を物色するふりをする。
これくらい構わないだろうと思う。これくらい、と言う位ならその金額を払えばいいとも思う。しかし啓一には、その金が無い。中学二年生にして財布というものを持っていない。その現実に立ちくらみを起こしそうな程の恥ずかしさを覚える。携帯電話を持っていないのはまだ我慢出来ても、財布を持っていないというのは堪える。しかも持っていない理由は、お金なんて貰えないから。身悶えするような羞恥心と闘いながら、啓一は今日も罪を犯す。

 万引きは窃盗だ。それは学校でも学んだ。窃盗とは泥棒。泥棒とは悪い事。悪い事とは、やってはいけない事。しかしそのやってはいけない、には注意書きがある。『やってはいけない事をやったとしても、気付かれなければやっていないことになる』。それは啓一が書き加えた注意書きなのか、世間でまかり通っている暗黙のルールなのか。その答えを持ち合わせている大人はきっといない。少なくとも啓一は出会っていないし、そんな大人がいるとも思っていない。

 ポケットに入っている未払いの商品。それを意識すると、大きな不安に襲われる。外に出るまでの通路がやけに長く感じるし、心臓の早鐘は高まるばかりだ。外に出てもしばらくは油断してはいけない。走るなんて以ての外だ。

 啓一の抱く不安は、捕まらないかという不安とは別物だ。なんだったら捕まったって構わないとすら思っている。恐いのは、万引きが母親に知られること。それを想像するだけで、啓一は耐えられない。今度こそ見捨てられるだろう。自分の目の前からは姿を消し、二度と会う事はない。それは大袈裟ではない最悪なシナリオだ。

 それなのに啓一は万引きを犯す。菓子を食べる事など、ついでの理由だ。本来の目的はもっと別のところにある。

 何度か商品を手にしては戻すを繰り返す。物色するふりはもうおしまい。啓一は出口に向かって歩きだす。

 レジの前に来た。啓一は歩を緩めない。一定のペースを言い聞かす。心臓の鼓動がはっきりと分かる。背中には嫌な汗。店員は自分を見ているだろうか。啓一には確認出来ない。目は嘘を吐けないと思っているから。

 自動ドアの前。ドアの開きがやたらと遅く感じ、苛立ちを覚える。早くしなければ。外の空気を浴びる。このまま思い切り走ってしまいたくなる。その衝動をぐっと抑えながら。歩幅は一定に。

 振り返ってはいけない。もしかしたら店員が見ているかもしれないから。目ぼしいものが無かった中学生。そんな自分を意識する。

 コンビニが遠くなる。完全に見えなくなったところで、ようやく警戒を解く。

 ポケットを探る。盗った商品の感触をきちんと味わって、大きく息を吐く。それから菓子の封を切った。棒状のスナック菓子は、それ特有の匂いを発する。啓一は菓子が好きではない。むしろ嫌いな部類に入るかもしれない。たくさん食べないと腹が膨れないから。それでも食べないとやっていけない。おそらく啓一の今夜の夕食だから。

 まともに食べられる昼ごはんだって、このままでは無くなってしまうかもしれない。給食費の未納を、担任はまるで啓一が悪いかのように催促してくる。

 菓子を一口齧る。何の味なのか啓一には分からない。何かと比較できるほど、料理を口にした覚えがないから。確かにコンソメ味とは書かれていた。でもそれが何を指す味なのか、啓一は想像する事しか出来ない。そう言えば、こういう味のするスープが給食に出てたっけ。

 あっという間に終わってしまう夕食だけれど、啓一は満たされていた。

 それは快感と言えるものなのだろう。あるいは背徳感というものか。スリルを味わいたかった、というほど軽薄な目的ではないと思う。啓一にはもっと切実なものだ。ギリギリという危機感から生まれる飢餓。飢えは何も食欲だけではない。

 満たされない何か。その何かの名前を啓一は知らない。だけれど、それを満たさなければ、自分はどうかなってしまう気がする。だからそれを埋めるために、啓一は万引きを繰り返していた。

 それはまるで溺れているような感覚かもしれない。あの時の弟の心境を想像してみる。ヒリヒリとした危機感。このままでは死んでしまうという恐怖。

 物を盗む時、それらを強く感じることが出来る。生きた心地がしないのだ。でも上手くいった時、それは大きな充実感に変わる。啓一はもがき苦しみながら万引きを繰り返していた。自分をこの世界に留めようと一生懸命になりながら。

 自宅であるアパートは、当然のように明かりが付いていない。啓一は息を殺しながら部屋の扉を開ける。もしも母親がいたら起こしてしまうから。日頃から眠りが浅いという母親は、それだけで啓一を傷つけることがある。お前がいなければもっとよく眠れるのに。

 母親が世間でいう一般的な母親と違うと感じたのはいつ頃だっただろう。それが虐待の一種であることを啓一は知らない。虐待というのは肉体的なものだけだと思っている彼は、自分が被害を受けていると、はっきり感じられない。それは唯一の肉親だから、という思いもあるからかもしれないけれど。

 殴られたことはない。だけれど、啓一の心に突き刺さる言葉の凶器は見えない傷をしっかりと残している。

 母親はいなかった。母子二人の生活は、離婚した夫の養育費で賄われている。その養育費で母親はどこかに出かけ、誰かと会っているのだろう。お前がいなければ。ほとんど口癖のようになっている。お前がいなければ、私だってやり直せるかもしれないのに。

 啓一は早々に自分の部屋へと行く。この家で心休まる時を過ごせるのは、眠っている時だけだ。意識を失って夢を見る。その場所だけが今の啓一にとっては、安らかな場所となっていた。






 学校というのは何て不思議なところなのだろう。啓一はつくづく思う。どうしてそこまで集団にこだわるのだろう。どうして除け者を作ろうとするのだろう。そしてその除け者は、どうして自分なのだろう。

 クラスメイトからの無視にはもう慣れた。でも、時折やってくる言葉たちには、胸が引き裂かれそうになる。啓一は母親からの言葉の影響で、心の痛みに敏感になっていた。

「なんか臭くない?」

 クラスメイトから弾かれるきっかけになった言葉がそれだった。啓一には心当たりがあった。その日は数日間、風呂に入れてもらえなかったからだ。自分で風呂を焚けば母親に酷い言葉をぶつけられる。それなら我慢しておいた方がずっとマシだった。

 だからクラスメイトの、その悪意の含まれた言葉に反発することが出来なかった。それから啓一への無視が始まり、言葉の凶器を投げつけられるようになった。

 授業中はもちろん、休み時間だって啓一は教室の隅の方で息を潜めていた。何か言葉を発したら、今度は何を言われるのだろう。自分から何か話しかけるなんてとんでもないことだと思っていた。

 同級生の何人かが自分を見る。その盗み見るような恰好に啓一は怯える。始まる。嫌な言葉を、ぶつけられる。

「誰かさんが教室に入ると、本当に臭くなるよな」

「ホントだよね。学校に来てほしくないよね」

「なんでいるんだろ。いたって空気と変わらないのに」

 自分だって分からない。啓一は暴れ出したい衝動に駆られる。どうして学校に来なければならないのか。その理由はただ一つ、母親から嫌われないようにするためだった。

 悪い事をすると、母親の目は氷点下になる。とても息子を見ているような目ではない。そしてその凍てついた視線で、母親は言うのだ。次やったら、お前、見捨てるからな。

 母親に捨てられる。啓一にとってその恐怖は計り知れない。自分は今、誰からも必要とされていない。唯一縋れるのは親だけだ。いつも酷い言葉をぶつけてくる親だけれど、母親は母親だ。そこに一縷の希望を抱いているのは、少しも間違ったことではない。

 本当は僕のことが好き。だからお母さんは見捨てない。僕を見捨てることなんて、絶対に、無い。

 啓一は耐えている。心をズタズタにされながらも、親から与えられているであろう愛情について想像しながら、耐えている。

 学校が終わればさっさと帰る。教室にいたってロクなことはない。啓一は逃げるように校舎を出て行った。

 今日は無視だけじゃなかった。どうしてここにいるのかと言われた。まるでいてはいけないかのように。まるで必要が無いかのように。

 家に戻ると母がいた。啓一はまさかいるとは思っていなかったので非常に驚いた。その顔がいけなかったのだろう。

「なにその驚いた顔は。嫌味?」

 啓一はブンブンと首を横に振る。帰ってきて早々、お母さんの機嫌を損ねるのは良くない。

「……ただいま」

 母親は啓一の言葉には応えず、言った。

「風呂、入っちゃいなさい」

 今度は大きく頷く。帰宅するなりお風呂なんてどうしてかと思ったけれど、そんなことを聞いてはいけない。啓一はさっさと入浴の準備をして、風呂場に行く。

 浴槽のお湯は少し熱かった。啓一は我慢して入る。肩まで湯に浸かりながら、啓一は考える。

 このまま顔まで沈めればなあ。

 そうすれば溺れる。弟のように。思えば啓一の生活が一変したのは、あの日からだった。

 弟の航は啓一と歳が離れていた。好奇心旺盛な男の子。まだ小学校に上がる前だった。啓一は航と一緒に公園に行った。

 悲劇が起きたのは突然だった。啓一は尿意を催してトイレに行きたいと思った。でも、両親には航から目を離さないようにと言われていた。だけれど啓一にも我慢の限界が来ていて、航に言った。

「兄ちゃんはトイレ行ってくるから、ここでじっとしててね」

 そう言うと急いでトイレへと行った。航を一人にした時間は五分にも満たない。それなのに、次に啓一が見た弟の姿は無残なものだった。

 公園には池があった。池の周りは柵がしてあったが、航の小ささでは簡単にくぐり抜けることが出来た。そして、池の中には魚が泳いでいた。その魚が気になったのかもしれない。あるいは、その日は晴天だったので水面がキラキラと光ったのが珍しかったのかもしれない。航は池に夢中になっていた。そしてそのまま転落した。

 航は苦しかったのだろうか。詳しい死因は聞かされなかった。両親は知っているのだろうけれど、まさか聞けるはずもない。

 それからはあっという間だった。両親は離婚し、ついていくことになった母親は、人が変わったように冷たくなった。

 あの時、死んでいたのが自分だったら良かったのかもしれない。啓一は想像する。溺れる瞬間を。それはきっと、永遠よりも長い時間だ。世界が崩壊してしまうのだから。啓一は想像を働かせた。そのめいっぱいの想像力は、どうしてか万引きをする時の心境と重なってしまう。もがき苦しんで、その先にある恐怖。万引きに成功すれば、やっと呼吸が出来る。それは一種の快感のようにも思える時がある。そうやって得られる充実感が、今の啓一を突き動かしていた。

 風呂から出ると、母はもういなかった。どこかに出かけていったみたいだ。

 部屋に置かれているテーブルを見る。メモ用紙が置かれていることはない。冷蔵庫を開けてみる。ビールしか入っていなかった。

 啓一の心に凍てついた風が吹き込む。風呂上がりなのに凍えるような冷たさを覚える。心の内を温めなきゃ。空っぽに空いているからこんなに冷たいんだ。啓一は向かう。コンビニに。






「万引きだ」

 それは首尾よく万引きを犯して、コンビニから離れた公園のベンチに座っている時だった。

「万引きはね、犯罪なんだよ」

 見た目は幼い。多分小学生だ。その男の子は真っ当なことを指摘する。

「犯罪はね、いけないこと、なんだよ」

「知ってるよ。そのくらい」

 啓一も応えた。真っ当なことを言った。でもね、と言葉を続けそうになって、これじゃあ説教をする大人と変わらないと思い、何も言わなかった。

「どうしていけないことをしているの?」

 男の子に責める様子はない。純粋な疑問として訊ねているようだった。

「仕方がないから」

 言葉はいくらでも浮かんだ。でもどれも、無垢な男の子には聞かせられないことのような気がして、啓一は適当な言葉を選んだ。

「どうしようもないから、やるんだよ」

「それは、ゼンイ?」

 まだ使い慣れていないかのような言葉の発音を聞いて、啓一はそれを反芻する。ゼンイ、ぜんい。ああ、善意、か。

「ねえ。それは、善意?」

「違うよ」

 それは全く的外れな質問だと思った。善意なんて、それこそ欠片もない。どうしてそんなことを聞くのだろうかと思っていると、男の子は嬉しそうに笑った。

「じゃあ、大丈夫だね」

「何が大丈夫なの」

「兄ちゃんが善人じゃないことが分かったから。だから、大丈夫」

 啓一は男の子に言われたことよりも、兄ちゃん、と呼ばれたことに酷く動揺した。その呼び方は、航のそれと同じだった。別に航に似ているわけではない。それでも啓一は嬉しかった。

「僕の名前はユウだよ」

 男の子は、啓一が訊ねる前にそう名乗った。

「ねえねえ。盗んだお菓子はどうするの?」

 啓一はポケットからチョコレート菓子を取りだした。

「わあ。いいね、チョコレート。僕、好きだよ」

「じゃあ、食べる?」

 ユウはコクリ、と頷いた。

「貰えるのなら、食べたい」

 ユウは照れ笑いを見せながら、手を差し出してきた。その小さな手にチョコレート菓子を渡す。

「ありがとね、兄ちゃん」

 啓一はあえて自分の名前を言わなかった。兄ちゃんと呼ばれることが単純に嬉しかったから。無条件に頼られたくなってしまう魔法の呪文。それが啓一には、兄ちゃん、だった。

「兄ちゃんは良い人だね。善人じゃないけれど」

「それはどういう意味」

「うふふ」

 ユウは笑う。随分と楽しそうに。

「教えたら、つまらないもの」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて、啓一をじっと見つめる。

「ねえねえ兄ちゃん。またお菓子、持ってきてくれる?」

 可愛い弟からの頼まれごと。弟ではないけれど、自分を慕うその声に、啓一は悪い気がしない。初対面ではあるけれど、相手は子どもだ。警戒心なんて抱かない。むしろこんな夜遅い時間に自分より歳下であろう子どもがいることに、妙な親近感を覚えていた。

「いいよ。持ってくる」

 啓一は了承した。兄ちゃんが持ってきてやる。






 その日から啓一の万引きは常習化していった。既に常習犯ではあったけれど、その頻度がぐっと増した。そして盗んできた物はユウに与えるようになった。ユウは何の屈託もなく喜んでくれる。相変わらず「善人じゃないから」と不思議なことを言うけれど、それ以外は可愛い弟のようになっていた。

「兄ちゃん、いつもありがとうね」

 その言葉を貰えるだけで、啓一は全てが報われる気がした。今ははっきりと罪を犯す理由が明確になっていた。ユウの為だ。ユウの喜ぶ顔が見たいからだ。その一心で、啓一は犯罪を繰り返している。

 ユウとの時間が、啓一にとって安らげる場所になりつつあった。ユウとは特に会話が弾んだりすることはない。ユウは啓一が与える菓子を美味しそうに黙々と食べるだけだ。その時間が終われば、「じゃあまた明日ね」、で終わりである。

 それでも啓一は楽しかった。自分を頼ってくれる存在。その存在がいることが、生活にどれだけ張り合いを持たせるのだろう。ユウと会うことを考えれば学校に行くのも苦ではなくなっていた。居心地の悪さは変わらないけれど、ユウがいると思えば耐えることが出来た。自分のことを必要としてくれる存在。啓一は今、その嬉しさを存分に味わっていた。

 今日は何を盗もうか。スナック菓子でもやってみようかな。啓一はそんなことを考えながら学校での休み時間を過ごしていた。考えていることは犯罪だけれど、啓一はとっくにそんな感覚はなくなっていた。ユウを喜ばせるためのゲームだというくらいにしか考えていなかった。

「なあ」

 いきなり話しかけられたことに、啓一は動揺を隠しきれなかった。その男子生徒は啓一の表情を見て、バカにしたように笑ってから、続けて言った。

「なあ、お前ってさ、母親から見捨てられてるんだろ」

「……えっ?」

「ウチの親が言ってたんだよ。お前んとこの母親は毎日遊び歩いてるって。子どものことなんか見捨ててるんだろうって。だからさ――」

 啓一はその後何を言われたのか覚えていない。気付いた時には、その男子生徒を思い切り殴りつけていた。






「同級生の子を殴りつけたんだってね。それもいきなり」

 啓一が事情を話すことは許されなかった。どんな理由があろうと、悪いのはお前だ。啓一のクラスメイトはよってたかって啓一を糾弾した。その声は担任教師の耳にも入り、親にも知らされた。

「アンタってさ、本当にさ、出来が悪い子どもなんだね」

 帰ってくるなり母親は啓一の髪の毛を引っ張った。初めて受けた肉体的な痛みはまるで感じなかった。とうとう手を出してきたのだ。その意味を考えて、痛覚が鈍っていたのかもしれない。

「私の最大の失敗は、あなたを産んだこと」

 母親は一方的に言葉の凶器を投げつけてきた。啓一は避けることも出来ない。

「航の人生を終わらせるだけじゃ飽き足らず、私の人生もめちゃくちゃにしたいのね」

 違う、と啓一は叫びたい。そんなことない、と喉が裂けても訴えたい。でも何も言えない。言いたいことはあるのに、それを言葉にすることが出来ない。

「今度何かやったらさ、捨てるからね」

 それは母親からの宣言だった。お前のことなど愛していないという宣言だ。その瞬間、啓一の中にあったささやかな希望が潰えた。

 何かの音がした。自分の内側で。それは心が壊れる音。

 気が付けば母親はいなくなっていた。記憶は飛んでいた。見捨てる、の一言に打ち砕かれた啓一は、空っぽの身体を抱えていた。

 その時、アパートの扉が叩かれる音がした。それがノックだと気付くのに随分と時間が掛かった。

 誰かを呼ぶ声。兄ちゃん、兄ちゃん。

 啓一は文字通り飛びあがった。そのままアパートの扉を開ける。

 そこにはユウがいた。

「やっほー。兄ちゃん」

 何の屈託もないその笑顔。

「ごめんね。この前兄ちゃんのあとをこっそりついていったんだ」

 ユウは悪気なさそうにそう言った。むしろサプライズを用意していたかのようにその表情は得意げだった。

「ねえ兄ちゃん。お菓子、食べたいな」

 頼んでいる。啓一に、頼んでいる。頼ってくれている。

 啓一の空っぽな身体が、徐々に意思を取り戻していく。そうだ、ユウがいる。ユウが、必要としてくれている。

「お菓子、食べたいのか」

 啓一は訊ねた。ユウの言葉が欲しかったから。頼られる存在であることを確認したいから。

「ユウはお菓子が食べたいんだな? 他に頼れる人がいないんだな? だから頼むんだもんな。ユウは、僕がいなきゃ駄目なんだよな。なあ、そうなんだよな」

「あれ?」

 ユウは首を傾げる。

「何か、いつもの兄ちゃんと違うな」

「違くないよ。全然違くない。だから言ってくれ。僕を必要としていると言ってくれよ」

「なにそれ。どういうこと」

「自分の気持ちに正直になってくれってことさ。そしてそれを僕に素直に言ってくれればいいんだ。お菓子食べたいんだろ? 僕がいなきゃお菓子も食べられないってことなんだよな。僕がいなきゃいけないんだよな」

「兄ちゃんはさ、善人なの」

 啓一は頷いた。

「そうだな。ユウからすれば僕は善人だよ。だって善いことをしているじゃないか。ユウのために僕は犯罪を犯すんだから。ユウのためにさ。これってユウのために善いことをしているってことだろ? だからそうだ。僕は、ユウにとって善人なんだよ」

 だからさ、だから、言ってくれ。必要だと言ってくれ。

「ふーん。そっか」

 ユウは続けて言う。とびきりの笑顔を添えて。

「兄ちゃんは善人だったんだね。僕、知らなかったよ」

 ユウは啓一を見つめる。啓一の目を、じっと見つめる。

「うん、そうだね。言われてみればそうかも。そうだね。兄ちゃんは善人だ」

 その言葉だけでも啓一には嬉しかった。善い人。それは頼りにされる存在。必要な人間ということだから。

「じゃあちょっと行ってくるから。いつもの公園で待ってて」

 啓一はユウを連れてコンビニに来ると、そう言ってユウの頭を撫でた。

「兄ちゃんが盗ってきてあげるから。楽しみにしてろよ」

 啓一はコンビニに入る。

 その時の啓一の手際は、最悪と言ってよかった。早足で菓子棚に行くと、周囲の確認もせずに適当に商品を掴み取って、乱暴にポケットに突っ込んだ。そのまま早足で店を出ようとする。

「ちょっと、君」

 自動ドアが開いた時に、背中から大人の声が聞こえる。咎めるようなその声。啓一は思わず振り返った。

 そこには店員がいた。あの、無気力そうにしか見えなかった、男の店員。

「何だよそれ。それじゃあ駄目だ。見て見ぬふりも限界だ」

 店員はそう言った。啓一に肩に手を掛ける。

 啓一の中で羞恥心が爆発した。今目の前の店員は何と言った? 見て見ぬふりも限界? 

 知ってたんだ。この店員は全てを知っていたのだ!

 啓一は店員の手を振り払って駆けだした。店員の声を無視して、全力疾走する。

 どうして。どうしてどうしてどうして。

 みすぼらしかったから? どうしようもない子どもに見えたから? 同情されていた? 身体の中で様々な感情がかきまぜられる。

 早くユウの所に行こう。ユウに会うことだけに、啓一の心は注がれる。

 公園に着いた。ユウを探す。いつものところにいた。最初にあったベンチの場所に。でも、そこにいるのは、ユウだけではなかった。

「あ。あの人です」

 ユウが指差す。啓一も聞いたことがないような冷たい声で、啓一を指差す。

 ユウの隣にいたのは大人だった。見覚えのある制服を着た、大人。

「君、ちょっと話を聞かせてくれるかな」

 啓一は何も言えない。事態を把握することが酷く困難だった。

「ユウ、どういうことだよ」

「だから、あなたがいきなり万引きしてきてやるって言うから、慌てて警察の人を呼んだんですよ」

 冷たい言葉はそのままにそう言って、ユウは警察官に目を向ける。

「悪事の自慢ってやつだと思います」

 その言葉を聞いて、警察官は笑った。啓一を見て。それは人を見下す笑い。

「君、恥ずかしくないの。自分より歳下の子にこんなこと言われて」

 警察の言葉は耳に入らない。啓一はユウだけを見ていた。

「どうしてだ。どうしてなんだよ」

「だって、善人なんでしょ」

 警察官が啓一の肩に手を置く。名前や住所を聞かれるけれど、啓一はそれらに応えられる余裕がない。

「どうして。どうして」

 啓一は独り言のように呟く。そのまま警察官に連れられて行く。





 やがて、警官に連れられた啓一が見えなくなる。ユウはつまらなそうに呟いた。

「この世に善人なんかいないんだよ。いるのは善意に溺れた人たちだけだ」
 

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

4

真山 真

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。