見出し画像

「自分」を生きる

前置き

またまた若干の息消沈気味だけど書いてみる。前回はなんだかんだ沢山かけたものの、今回はどうなることやら。

今回はつぶやきでドタバタしたのが原因という罠。まあ、まとめ感覚で頑張るか。

みんな「自分」を生きていない

つぶやきでも書いたのだが、「個人化」が進む割には、世の中はまだまだ「個人」になり切れていない人が多いように感じる。

ボクの指す「個人」とは「自分」のことであり、要するにみんな「自我」が欠如しているように感じるのだ。

この理由はなんとなくわかる。

海外が先行し、日本でもようやく「個」を大事にするという意識が強くなり、ツールの進化に合わせて「個人発信」が出来るようになったものの、前人未到の世界故に「正しいやり方」が全く存在せず、「ただ切り拓いた」だけに過ぎないからだろう。

つまり、今の「革命」は「ただの革命」に過ぎない。「足並み」を揃えることを考えていないし、倒したあとの「統治」なんて何も考えていない。ボクが苛立ちを覚えるタイプの完全なる「後先考えずに行動した結果」が今ここにあるのだ。

多くの人は薄々気づいているハズだ。いや、保守派だっているぐらいだから「革命」の無謀さは恐らく誰だってわかっている。

わかっているが、「行動しなければ変えられない世の中」だからこそ、エネルギーがある人間が先んじて突っ込んで行ってしまうのだろう。

「いわゆる声を上げられる人間」が先行して行ったはいいものの、置いていかれた人々はただ唖然とし、呆然と立ち尽くすしかない。

「どうしたらいいかわからない?いや、自分で考えようよ、道は切り開いたんだしさ」

とでも言ってるようにも聞こえる。行動した人はきっと、誰も歩かないのを見て首を傾げているんだろう。

一応、触発されたから見よう見まねで同じように行動してみたものの、それでも痛い思いしかしなかった人は多いんじゃないだろうか?

「革命」は最初こそは「斬新で革新的」なのだが、似たり寄ったりのやり口ばかり台頭して来ると、「またかよ・・・・・・学習しろよ」とウザがられてしまうのだ。

わかる?

例を上げるなら、「ワンオペ育児マンガ」が分かり易いだろう。確かにワンオペはしんどいので、初めは「何この夫酷い!!」が目立つものの、よくよく考えてみると「妻にも原因あるよね?」というあの感じ。

ボクからすれば、「何でまた男女対立してるの?何で???」と甚だ疑問でしかないし、危うく暴言を吐きそうになる。マジでよろしくない。

今日まで考え続けたおかげで、どうしてこうなってしまったのかその原因がわかった。

みんな何も知らないし、何も考えられない。「考えない」のではなく、「考えられない」のだ。

人間というのは悲しいもので、原因がわかったとしても、正しいやり方を知らない限り「間違ったやり方」で「自分にとって明確な敵」を「攻撃してしまう」のだ。

人間、長いモノには巻かれる生き物だ。「自分より偉い人」にはついて行ってしまう。悲しいかな。

そして、信じられるモノが無い時は信じたいモノだけを信じる。それが間違いだとしても。例えば神様とかね。

面白い━━いや、悲しいことに、人間みんな「一人で歩くこと」を望むのに、「一人になると歩けない」のだ。

それが独立の痛みを生み出し、やがては腐り落ちる。

身近なところで言うならば、子どものうちはみんな同じだったはずなのに、大人になる頃には停滞してしまうあの感じだ。

でも、ボクは知ってる。伸び悩むのはただ「やり方」を知らないだけだと。

それぞれに違う種を持っているのに、同じやり方で同じように花を咲かせようとして失敗するんだ、という例を聞いたことがある。

まさしくその通りなのだろう。

みんながみんな、作り上げられた「分り易い理想像」をベースに善悪を判断して答えを出そうとしている。

例え話

分かり易い例でいうなら、みんながみんな「お母さん」という偶像を崇拝をしながら理想ばかりを口にする。あの感じ。

一言で「お母さん」と言えどまちまちなのに、「母とは○○である」と分かり易く定義付けしようとしてしまう。

「お母さんになる」とはどういうことなのか。それは確かに必要な答えであり、それぞれが持っていなければ行けない答えだ。

それは単純に、「子どもにとっての母親になれるか」と言う話であって「こういう母親になりなさい」という意味では無い。

そして、こうして例を挙げたので分り易くなったと思うが、「じゃあお父さんって何なの?」と思わないだろうか。

父親像もまた、理想像ばかりが先行していて正しいものがわからなくなっている。そこを忘れてはいけない。

男女問題の根幹を分かり易く言い表すなら、「支えてよ!!」「支えてくれよ!!」「支えてよ合戦」に過ぎないと思う。

やりたい事を明確にしたり、出来ることを増やしたり、気持ちを具体的にしていくことで分かり易くなるだろうし、受け入れ易くなるんだろうけど。

「受け入れる」というプロセスを入れることなくとりあえず「夫婦」になって、とりあえず「両親」になった家庭に多く見受けられる。

「それぞれの在り方」というやって置くべき合意がなされずに押し付け合いになっているものと思われる。

しかも、互いに思い込みが激しい。意外と「家事をやる」にしても要求するレベルは人それぞれだったりするのだ。押し付けてない?

ラブラブな夫婦は話し合いが出来てるハズだよ。それ以外だって明確な役割分担が出来てるんじゃないのか?

夫婦となったからには、共同作業が増えてしかるべきだ。昨今に求められる「父親(夫)の在り方」とは、「母親(妻)の負担を減らし支えること」だろう。「母親(妻)の在り方」だって同じだ。

「働いてるから面倒くさい」ではない。子育ては労働だ。しかも、薄給が当たり前であり、共働きでなければ苦しい社会が目の前にある。

現状、子育てを分担できない夫に家庭の居場所は無いだろうし、夫が抜ければ地獄を見るだろう。だから、夫を使えなかった妻にも問題はある。

これは単純に、「親になる」「夫婦になる」という敷居を下げられなかったせいでしかない。

「とりあえずの結婚」が多い昨今ならば、なおさら「互いを認める」という努力が必要になる。

そのプロセスを省いて「家族になれない」からこそ浮気や不倫が横行してしまうのだ。わかったか。

人間、無知から始まる。

そこに男女差なんてない。

男女の争いを見ることは多い。確かに「生存本能が強い女」「生殖本能が強い男」という明確な違いはあるのだが、それ以前に人間としての共通の心理があることを忘れてはいけない。

透かして見れば、割りと人間の生態というのは男女に大きな違いが無いように思える。群れを作り、友達を作り、あるいは一人になる。単純に、そこに込められた「意味合い」が違うというだけではないだろうか。

人間としての行動理念の本質は「誰かに認められること」だ。

「女性の認められる」「男性の認められる」は確かに違う。だが、家庭に入ってしまえば差は無いように思える。

というか、近年になってますますその差は無くなり、「自分を認めてほしい」という単純な願いだけが残ってるとは思えないだろうか。

女性より男性の方が早く気づいてるモノかとも思ったが、「孤独」を感じる人に多い感情とも言えるだろう。

しかし、本質はみんな一緒である。しかも、「認められる」がどういうことなのかを自分で理解していない為につまずく人が多いように思える。

大昔は狩りと家庭という明確な役割があった。その名残で、確かに仕事と家庭という役割が残った。

「家庭は女が作るモノ」という認識だけが残ってしまっているが、よくよく見てみれば、「家庭を作る女性」とは何も「母親だけじゃない」というのが分かるハズだ。

歴史モノドラマなどを見て気づいた人は居るべきだと思うのだが、家庭を作る女性の中には「乳母」というものがあったり、庶民にしたって「子どもの母親」だけでなく多くの人が子育てに知恵や力を貸していたのではないだろうか。

今は母親の話になっているが、老若男女それぞれにそれぞれのコミュニティが存在しており、指導者となれたのは一人ではないハズだ。

それが一本化されてしまったのは、寺子屋ではなく「学校」というモノが組み上げられたことにある気がする。

それだけでなく、「男性が社会を作る」というビジョンが明確になっていた時期にも由来しそうだ。

とはいえ、「みんなの足並みを無理やり揃える」という地獄のような時代は終わったのだから、現代は「足並みを気にせず追いかけたり追い抜いたり並んだり自由に歩ける社会」になるべきでは無いだろうか。

そこに必要となって来るのはそれぞれに合った「育成カリキュラム」のように思える。

手を離せば歩けないことを認識した上で、「どのように育てるべきか?」と個を見る時代だ。

そして、多くのことを人任せにすることは出来ない。できることなら親が、教師が、教育者が力を貸すべきだろう。しかし、その上で自分のことは自分がよく知っていなければ、結局はただの歴史の繰り返しになりかねない。

だから、「自分」にならなければならない。

そして、そこには得て不得手もあれば、コツを掴める人、掴めない人がいることを忘れてはならない。

だが、そこまで難しいことではない気がする。

自分との向き合い方(基礎)

 自分の「好きなこと・出来ること・得意なこと・好きでやってること・興味のあること」を知れば、才能や向上の足掛かりになる。

「好きなこと」単純な好き嫌いのこと。「出来ること」単純にこなせていること。「得意なこと」特出した技能のこと。 「好きでやってること」習慣でやってること。「興味のあること」これからやりたいことや覚えたいことになる。

特に、「好きでやってること」という心構えについては、自分の特技に繋がることだと言える。

ボクなら「考えること」かな。

趣味とは似てるけど少し違う。

例えば、「人の話をよく聞く」だとか、「相手の良いところを見る」だとか、「少し踏み込んで考える」だとかそういったことと言えば分り易いだろうか。

そう言うとちょっと敷居が高く感じるかも知れないが、要するに「自分なりに楽しむためのコツ(意識していること)」と言えばわかり易いと思う。

「興味のあること」は自分の世界を広げる入り口だと思えばいいだろう。

しかし、これも難しく考えなくていい。これを「知りたい・学び始めている」ものと言えばいいだろうか。

「お金のこと」「料理のこと」と言った勉強系から、単純に趣味として始めたいモノでも問題無い。

「何かを始めるキッカケになりそうなこと」と表現すれば分り易いだろうか。

上手くのめり込めれば自分の取り柄になると思うので、考えてみるといいだろう。

ボクはぷよぷよの連鎖に興味があったから始めてみたよ。

って言うと何も生み出さないので無意味に思えるかもしれないだろうが、これは「考え方」の基礎作りや単純な脳トレになるのでちゃんと意味がある。とこじつければちょっと気が楽になるんじゃない?

趣味系は生活を潤すことにも繋がるし、そもそも「自分を癒す力」になるので、覚えておいて損はない。

「楽しい」という気持ちを何処からでもいいので作っておけば、別の物事でも「楽しい」という気持ちに繋げ易くなる。

「気持ちが軽くなるので挑戦に繋がり易い」と言えば分かり易いだろうか。

なので、趣味作りは大事なことである。リラックスできて楽しめて癒されて最高だろ?

新しい発見にも繋がるので、依存しない程度で作っておくといいだろう。依存は過剰摂取のことなので、リラックスできないから注意。

「好きなこと」は大分類的に考えると分かり易いだろう。例えば、お菓子が好きだとか、音楽が好きだとか。自分の何かに繋がることではなく、「単純な好み」として考えれば分り易いだろう。

「出来ること」は初歩的に出来ていることを洗い出せばいいので、バカみたいと思うかもしれないが、やってみてほしい。

「バカみたいなこと」にならないようにステップアップして考えるならば、「漢字が書ける(漢検○級)」「英語が話せる(日常会話)」「掃除が出来る(○日に一度)」「巻数を綺麗に揃えて片付ける」のようにレベルを書き込んでみると自分の強みがわかるようになるだろう。

「巻数を揃える」というのはキッチリした性格を表すものであるように、自分の性格診断にもなるので色々と書いてみるといいだろう。

「得意なこと」は自分がちょっと誇れることと考えると出し易くなるんじゃないだろうか。

ボクは「思考の羽を伸ばすこと」くらいしかないけど。あ、あと、「長々と語ること」「自分なりの意見を持っていること」「価値観に囚われず新しく考えること」くらいかな?

という風に、自分が普段やってることから「他人だったらやらないこと」を抜き出してみるとそれを特技と呼べるかもしれない。

もちろん、当たり障りの無い特技でも問題無い。「特技」というのも考え方や捉え方次第で別のことに生かせるので、どんなちょっとしたことでもいいから抜き出して見るといいかもしれない。

因みに、「得意なこと」と表現するのは、考え方の敷居を下げるためだ。特技って言うと大それてないとダメなように感じてしまうからね。

「得意なこと」を磨き上げれば「特技」になると考えれば分かり易いだろう。 


自分の「嫌いなこと・出来ないこと・苦手なこと・やりたくないこと・譲れないこと」を知れば、自分の欠点・克服点に気づける。

「嫌いなこと」単純な好き嫌いのこと。「出来ないこと」単純に不可能なこと。「苦手なこと」嫌煙してるだけのこと。「やりたくないこと」単純に避けたいこと。「譲れないこと」絶対に曲げられないもののこと。

「嫌いなこと」は好きなことと同じように単純なモノを挙げればいいだろう。嫌いな食べ物とかね。

「出来ないこと」はどう足掻いても難しいことや理解しにくいことを挙げるといいだろう。

ボクはどう頑張っても教科勉強が出来ない。基礎よりも応用が楽しすぎて・・・・・・。

という風に、理由まで見つけられるといいかも知れない。どうして出来ないかの原因がわかれば克服もできそうだが、たぶん出来ない。だって出来ることをやった方が楽しいじゃない。

「苦手なこと」は踏み込むことを躊躇っているものを挙げるといいだろう。

「出来るには出来るんだけど、ちょっとやだなあ」というレベルのモノだ。これが分かると、あるいは人に任せたり、どうしようも無い時は腹を括って行動したり、妥協点になってくる。

「このレベルのモノが無い」という人は相当生きることに苦労すると思われるので注意が必要だ。だって、「やってくれたら嬉しいなあ、でもやるしかないよな」という曖昧な部分だから。喧嘩を避ける為にもこのレベルはあればある程いいと思う。

「やりたくないこと」はキッパリすっぱりやりたくないが、舌打ちしながら出来ることと考えれば分かり易い。

つまり、「苦手なこと」は「仕方ないよなあ」「やりたくないこと」は「チッ。仕方ねえな」って感じ。

他人が関わると押し付けられた時に誰かに押し付けたり、逃げたりするレベルのモノかな。

人と喋るのはいい(苦手)けど、踏み込んで喋る(やりたくない)のは無理って感じ。

「生理的に無理」「ビーガンだから無理」などのポリシー由来のものは「譲れないこと」に分類される。

「激しいこだわり」とも呼べる部分なので、「嫌い」という枠組みじゃなくても挙げてみるといいだろう。多くの場合は地雷になるので、こちらに分類した。

「苦手」「やりたくない」「譲れない」は嫌いのレベリングで、人によっては境界線が曖昧かもしれない。

悩むレベルの嫌いは融通が利くので「苦手」悩むまでもなく嫌だけど避けられなくなったら重い腰を上げるのが「やりたくない」断固として拒否!!はあ!?殴るぞ!?よし、戦争だ!!という地雷が「譲れないこと」

だと思えば分り易いんじゃないかな?

この辺をはっきりさせなければ、「自分でもよく分からない地雷」を作動させて喧嘩になりかねない。

それに、自分で言葉にしておくとあらかじめ了解を得易くなるので、改めて考えてみるといいだろう。

ボクはデカめの虫を殺すのだけは絶対に無理。でも、カブトムシとか眺めるのはセーフなので意外と昆虫館とか行ける。でもキモい。

昆虫「殺す・捨てる・触る・共存」が「譲れない嫌い」「カブトムシ見る・知識を得る」は「譲れる苦手」「ちっちゃい虫の殺生」は「やりたくないけどやるしかない」

これを例に考えるともっと分かり易いかもね。

あくまでもこれは「自分ベース」のモノであり、他人と比べてはいけないことを忘れてはならない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?