仮面の力(14) おわりに 仮面に対する恐怖、克服されず

  おわりに 仮面に対する恐怖、克服されず

 卒業芝居公演に役者として参加し勉強したとき、自分のキャラクターをつくる過程で、実際に仮面をつけはしなかったが、仮面をつけるのと同じようなまるで変身といっていいような心理効果を感じた。
 はじめは、普段は隠しておきたい自分の身体や心のコンプレックを強調し、娼婦のようにどぎついメイクと衣裳で扮装していった。肉体的にもいびつで、生産能力もない、資本主義社会においていかれ無視された、ゴミのような存在で、でもそれぞれが個性的なその人だけのキャラクターが生まれていった。ホームレスや部落出身者、在日外国人、エイズ患者、そういった差別されている人たちを連想させる。けれども、社会のどこにも属さない、何も持たない人たちだからこそ、素直に現実社会のおかしいところを馬鹿にしたり、権威のある人を笑ったりできるのだ。
 そのキャラクターを演じているとき、とにかく自由に感じた。感情は喜怒哀楽激しく表現でき、権力や体制なんてくそくらえと思った。そしてみんなただ同じ人間であると感じた。役者の立つ位置とはここなんだなと感じた。何にも捕らわれずおおらかで、他人に愛を差し出す存在なのだ。最初は外見を変えることで行動が解放されていったのだが、それにつられて内面まで解放され変わっていったのがわかった。仮面ではないが、扮装が人間に与える影響を強く体感した。
 私たちの時代、一般に仮面は真実の顔ではないもの、真実の顔をおおい隠すものと考えられてきている。しかし、仮面を取り去ることによって、真実の顔、素顔は、仮面にとらわれない生き生きとした表現力を獲得したであろうか。真実の顔、唯一の顔など存在するのだろうか。内的本性と外界と接する「顔」のどちらに人間の不変的真実があるのか、現代人は判らなくなっているのではないかと徳永も書いている。それは、都市化が進むにつれて個人は群集の中の一点に過ぎなくなっている反面、大勢の他人と絶えず接し、他人に顔を向けていなければならない今日的状況に起因している。
 現実の人間関係のなかで、ときに親であり、娘であり、遊び仲間であったり、それぞれの役割や役柄に違った顔を持つことになる。素顔あるいは真実の顔はつねに一つであることはできないのである。否応なく色々な顔を持つとき、素顔はむしろ仮面を真似ることになる。素顔はすでに他者の目に映った、つまり特定の他者との関係のなかに成立した「私の顔」という仮面なのである。(*46)
 堀部恵は、「仮面の解釈学」の中で書いている。(*47) 《素顔は真実に、仮面は〈偽り〉ないし〈絵空ごと〉により近い、と考えるのは、特定の文化的限定を受けた、一つの特殊な偏見以上のものではない。》
 真実の顔とは、人間同士が内面的に響きあい、心も触れあわせられるような豊かな多義性を持つ顔であり、そこには多くの仮面=表現が含まれるのである。
 色々と仮面について調べてきた。仮面は人間の考え出したものだったが、その力は人間を超え、自然という宇宙全体をあらわし、被る者も、それを見る者も、日常を超える感覚を受け取る。仮面は、目に見えないなにかを自分の周囲に勝手に想像してしまう者にとって、そのようななにかの威力を感覚的に現前させる呪力を否応なく押し付けてくる非常に暴力的な存在である。仮面におびえると同時に、やはり魅力を感じる。生半可なパワーでは太刀打ちできない生きている仮面の力をうらやましいと思う。




*46 中村雄二郎  「仮面」『述語集−気になる言葉−』 岩波新書 1984年

*47 堀部恵   『仮面の解釈学』 東京出版会 1976年

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