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秋田旅行記(2018.4)その3(カルマティックあげるよ ♯102)


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2018年4月28日、14時過ぎ頃。
僕は見学をお願いした四同舎の中にいた。

四同舎のエントランスホールは吹き抜けの中を螺旋階段が通り、南側に設けられた大小複数の窓から光が差し込むという構造だった。視界のほとんどがモノトーンでまとめられたその空間は一見無機質で冷たい印象なれど、なんだか心がだんだんと晴れ晴れしていくような、不思議な居心地の良さがあった。

挨拶の後、管理者である清水川さんが白井晟一がいかなる建築家だったかについて、簡単に説明をしてくれた。
白井氏が他の著名な建築家と違ってユニークである点は、若い頃に率先して学んできたのは建築学ではなく哲学であり、それが建築の仕事を行う上でも思考のバックグラウンドになっているということだった。彼が手がけた建築物には、一般的に要求される利便性や機能性といった単語とは別次元にある、人と建築との関係性に問いかけるような要素が見受けられるらしい。

続いて、清水川さんから内部を案内される。

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四同舎の入口。ドア自体は不透明で重たい印象だが、両脇のガラスは天地に渡って広々と貼られており、開放感を感じられた。外から入り口を眺めた時は重く閉じられた印象だったのに、それとは全く対照的だ。

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エントランスのアイキャッチとなっている階段。美しく削られた石の段が、まるで宙に浮くかのように並んでいる。昭和中期に建造された階段であるにもかかわらず、僕にはその造形がとても未来的に感じられた。優美な印象から思わず足をかけて上ってみたくなるが、先に1階の中を見ていきたいので後回しにする。

清水川さんからご自由に歩いて見学していいですよ、と許可をいただいたので、お言葉に甘えてフロア内を見て周ることにした。

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エントランスから左に曲がって入れる廊下。かつて酒造組合が管理していた頃は、この廊下を数多くの職員や来客が通っていったのだろう。壁にかけられたプレートに書かれた「喜歓酒得」という四文字言葉は、左から読むのか右から読むのか僕にはわからない。

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倉庫として使われてきたらしき部屋。煉瓦でできた構造物は暖房か何かだろうか。雪かきの道具も置いてある。倉庫の中は未来的な雰囲気の漂うエントランスとはうって変わって、いかにも日本の一般家屋的な造りに見える。
棚には残されたダンボール箱や清酒用のケースがたくさん積み上げられていた。酒造組合の建物だった頃から時が止まっているようだった。

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エントランスを左に曲がってからずっと奥に行くと、広い台の上に畳を敷きつめて造られた広いお座敷があった。座敷近くの椅子に清水川さんが座っていたので、僕も隣の椅子に腰かけてお話を伺った。座面が籠のように編まれた椅子は麻か藤製かわからないが、洗練されたデザインの上とても座り心地がよかった。背後の窓からは春から初夏に変わる季節のやわらかな日差しが差し込んで、気持ちよかった。

清水川さんのお話を聞くところによると、このお座敷は酒造会館時代、会議や宴会を行う場所として利用されてきたらしい。真面目なことも多少気の抜けたことも両方行う場所だったようだ。

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お座敷をじっと眺めると、太い丸太のような棒が空間を横切っているのに気づいた。何だろう。物干として使うにはいくらなんでも太すぎる。不思議に思って清水川さんに聞くと、恐らく床の間を意識したものではないか、というご返答だった。あの棒が何かを隔てる境界線になっているということだろうか。
正直な感想を述べると、あの棒に機能的な意味は全くないように思える。けれどもあの棒があるからこそ、お座敷が単なる日本家屋的な畳部屋に落ち着かず、空間として引き締まった神聖な印象を放っているようにも感じられる。異質だが決して邪魔な存在ではない。ノッポな人にとっては歩いててうっかり頭をぶつけそうになるので、邪魔かもしれないけれど。

座敷の側面には逆U字型の小さな扉があった。そう背が高くない人でも、通る時にちょっと身をかがめる必要がありそうなくらいの小ささだ。清水川さんに聞くと、それも意図したものかもしれないとのことだった。あの扉は厨房とつながっていて、かつて宴会が行われた時には料理やお酒を運んでくる人が出入り口として使っていたらしい。人が扉を開けて通る際、少し身をかがめながらくぐる姿に、白井氏は一種の美を見出していたのかもしれない。

酒造組合の手を離れた現在は人が集う間として利用される機会はだいぶ減ったが、時に外部の団体に貸し出して利用してもらうことはあるらしい。建築専攻の学生が全国の複数の大学から集まって、ここで合宿を行うこともあるのだそうだ。この座敷の上で建築について語り合った後、布団を敷いて一夜を共にしながら交流を深めるのだという。日本の建築史に名を刻む白井晟一が手がけた建物の中で青春の一日を過ごせる体験は、彼等にとっては特別なものなのかもしれない。

会館としての役目を終えた四同舎だが、その後も施設として継続的に利用はされており、白井晟一の生涯をパネルや資料を通し学べる展示も開催されたことがあるそうだ。
それを聞いた僕はふと、「記念館としてリニューアルしたりしないんですか?」と質問してみた。しかし清水川さんの考えとしては、そういった観光目的の方向より、きちんと地元地域の人々に継続的に活用してもらえる建物にしていきたいとのことだった。例えば集会の場に使ったり、イベントを行う場として利用したり。いわば公民館的な役割を持つ建物といったところだろうか。確かに、地域の人々に現在進行形の「生きた建物」として活用され続けることこそ、建築物の理想的なあり方なのかもしれない。

白井晟一が手がけた建物を自分の目で見ようと、ここ四同舎には私と同じように各地から人々が訪れるらしい。
しかし一方で地元住民からの関心は、もちろん個人差はあれど前者と比較すると今ひとつなのだそうだ。歴史に名を残す建築家が手がけた作品だということを知らない人も多いらしい。さすがに竣工から半世紀以上の時が経つと、様々な面で風化も進んでしまうようだ。

建物を白井晟一が手がけた価値ある作品として保存して欲しいという声がある一方、最先端の技術を駆使した新しい施設に建て替えて欲しい、という声もあるのだろう。そしてそのどちらの意見でもない人もいるのだろう。
町おこしというのはなかなか難しいものです、と清水川さんは言っていた。

清水川さんは一見寡黙に見えて、話し始めると止まらない人だった。けれど僕にとっては新鮮で面白い話ばかりなので、すっかり聞き入ってしまった。ふと腕時計に目をやると、いつのまにか四同舎に足を踏み入れてから1時間近くが経とうとしていた。

椅子に座ってくつろぎながらお話を聞いてるのも楽しいけれど、そろそろ2階の方も観に行こう。
清水川さんに上の階へと移動したいことを伝えると、快く承諾してくれた。そして解錠でもするためか、先に立って部屋を出て行った。
僕も椅子から立ち上がった。そしてもう一度お座敷をちゃんと観ていこうと思って、座敷の縁に歩み寄り空間に目をやった。じっと眺めていると、かつてその場で行われていた宴会を楽しむ人々の姿が、輪郭のぼやけた影絵のように目に浮かんできた。酒瓶を片手に騒ぐ人たち、 うずくまって寝ている人たち、身をかがめながら扉から姿を現し挨拶する給仕。

清水川さんと話している途中、日本の酒造産業が衰退しているという話を聞いた。
「いや、今の時代でも日本酒が好きな人なんてたくさんいるじゃないですか?」と返すと、昔はもっとたくさん売れていたのだという。かつて娯楽がまだ少なかった時代、みんなで酒を呑みながら語らい団欒することこそ民衆の主たる娯楽だったのだそうだ。それが時の流れと共にどんどん変わっていったらしい。戦後の高度経済成長と共にテレビが一般家庭に登場し、他にも新たな娯楽が次々と生まれ大衆の間に普及していった。酒を酌み交わすことが娯楽の中心だった時代が終わったのだ。

僕は陽光に照らされた座敷をしばらく眺めると、部屋の外へ出るため出入口へと歩き出した。

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部屋の壁には絵が飾ってあった。何という画家が描いたものなのか気になった。

つづく

秋田旅行記(2018.4)その4

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