大切なことはおばあちゃんが教えてくれた
自己紹介を兼ねて
「英語的視点で視野を広げる」
なんて謳い文句でXやnoteで発信している私なので、外国にかぶれたパリピな日本人をイメージされているかもしれませんね。
実際、私は海外の価値観やものの考え方が好きですし、自分に合っていると思います。アメリカに1年いたこともあって、外国人の友達もいます。友人も海外が身近な人が多いです。そういった周囲の影響もあって、日本の外の文化への興味が人より大きいのはたしかです。
ですが、実のところ、私のルーツは外国人なんて一人もいない「村」にあります。
日本海側の米どころで、人口が6000人強の小さな小さな村で生まれました。家の周りは田んぼと畑、あぜ道をいたずらしながらの登下校。小学校は1学年45人しかおらず、幼稚園から中学校まではみんなほぼ同じ顔触れでした。
中学校はヘルメットをかぶって自転車通学。夏の早朝は車に轢かれてひっくり返っているウシガエル(体長の推定は20㎝)を何匹も見送りながら部活の朝練に向かいました。
ゴールデンウイークはあちこちで田植え、夏は青々と育った稲の絨毯とアマガエルの大合唱、秋は黄金に実る稲穂の稲刈り、冬は豪雪で屋根の雪下ろしと巨大なつらら。
このような自然豊かな田舎で、祖父母、曾祖母、両親と弟二人という大所帯で18歳まで暮らしました。
祖母の隣で眠る日々
私は自他共に認めるおばあちゃん子でした。
2歳になる前から母親の元を飛び出し、祖母の布団で一緒に寝始めたらしいです。自分の元で寝させようとする母親を振り切って、
「おばあちゃんの隣で寝る!!!」
と泣きわめいて祖母の元へ走ったそうです。当時の私がなぜそのように言い出したのか、もちろん自分では覚えていないのですが、どうやら眠る前に聞かせてくれた昔話が楽しかったみたいです。
小学校にあがる頃になると、1話では足りなくなり、
「もう1つお話してよ」
とお願いするようになりました。途中で祖母の眠気が勝り話が途絶えると、
「おばあちゃん!ねぇ、おばあちゃんってば!!起きてよ!お話まだ終わってないよ!!」
と半分寝ている祖母をたたき起こして無理やり話をさせていました。今思うと祖母に大変申し訳ないことをしたと思います……。
結局、大学入学を機に上京するまで私は祖母の隣で毎晩眠りました。
夜中にお腹が痛いときはトイレについてきてくれたし、咳が止まらないときは辛子をガーゼに塗って胸に湿布してくれたし、過度な運動で筋肉が硬直し、神経を刺激して全身が痛くて眠れないときはマッサージをしてくれました。
どれだけお世話になったかわかりません。
祖母の隣で眠るようになってから16年、後半は逆に私が祖母の急な体長変化を見張っている側面もありました。高血圧で脈が早くなることがたまにあった祖母は「〇〇(私)が隣で寝てくれることで安心だよ」と言っていました。
おばあちゃんは元小学校教員
ここで簡単に私の祖母について紹介します。
祖母は大正15年生まれ、地元では割と格式の高い家柄の養子となり、何不自由なく育てられたと祖母自身の口から聞いています。祖母の育ての父の教育方針で、幼いころの書道や洋裁など沢山の習い事をさせてもらったのだとか。
のちに私も書道とピアノを祖母から習うようになるのですが、祖母がなんでもできたのは育ての父の教育のおかげだったようです。
わたしの祖母は小学校の教員をしていました。私が生まれたころは既に現役を引退していましたが、その頃でもなお、祖母は村の有名人でした。
小さな村なので、お子さんが祖母の教え子だったという人も多く、一緒にいるときは「〇〇先生!」とよく話しかけられていました。
地域の民生委員をしていたこともあり、私が通っていた小学校の入学式や卒業式に来賓としてお祝いのスピーチをしたこともあります。
また、前述の通り書道にピアノ、洋裁・和裁、絵画と何でもできた人なので、近所の子ども達にピアノや習字を教えたり、寺子屋みたいなことをやったりもしていました。
私が小学校3年生のとき、新卒の若い女性が担任になりました。
ある日の夜、担任であるその先生が祖母を訪ねてきて来たことがあります。社会科で地域密着の内容をとり扱わなければならず、この地域の歴史を祖母に習いに来ていたとか。
ただ、これには子ども心に複雑な想いがありました。「担任の先生」って神格化してしまうところがありませんか。その先生が祖母に教えを乞うって……なんとなく気まずかったのを覚えています。
祖母が現役の教員だった時のエピソードで大変印象深いものがあるのでご紹介します。
ある日、祖母が担任をしていたクラスでお弁当泥棒が発生したそうです。(詳しい時代背景がわからないのですが、その当時は給食は無く、各自がお弁当を持参していたらしいです)
「やった人は正直に申し出てほしい」
祖母はそうクラスにそう伝えたけれど、残念ながら名乗りでた者は無し。苦肉の策で祖母は全員に目をつぶらせ、一人ひとりの手の臭いを嗅いで回ったそうです。
すると一人の子の手から鮭の臭いが。
犯人が誰か分かった祖母は、翌日から自分の分ともう1つ、その子の分のお弁当を作るようになりました。そして、給食が始まるまでの1年間ほど、誰にもばれないようにお弁当をこの子に渡し続けたそうです。
自分の祖母ながらこの行動には頭が下がる思いです。村の人々に祖母が慕われていたのは、このような教員の枠を超えた祖母の愛情深さが伝わっていたからなのかもしれません。
祖母の教え5か条
祖母から受けた教えは沢山あるのですが、その中でもより記憶に残る教え5か条を書き出してみました。
1.台所に行くときは手ぶらで行くな
食べ終わった食器や洗い物がないか確認して、どうせ行くなら持っていけ、ということです。動くなら効率を考え、人の役に立つことをしないさい、とも言い換えられます。これは私の父も全く同じことを言われて育ったらしく、今でも体に染みついていると言っていました。
2.生きてるうちに頭は使え
折り紙がキレイに折れない、習字がうまく書けない、家庭科の課題の布が思った通りに切れない、などありとあらゆる場面で祖母に頼ってきました。祖母はその都度、私を手伝ってくれましたが、ただ助けるだけでなくどうやったらきれいにできるかを教えてくれて、最後には「生きてるうちに頭は使いなさい」とちょっと茶化しながら言うのです。
「まるで私が頭を使えてないみたいじゃん!」
と当時はふてくされましたが、どうやったら最短でベストな成果物を仕上げられるか、という視点とマインドは社会に出てからも大いに役立ったなと感じます。
3.持って生まれた性格は変えられないから教養でカバーしろ
気が強く、弟と喧嘩ばかりしていた私。そんな私を見かねて祖母が言った言葉です。馬子にも衣装、ではないですが、“教養”と言う名の洋服を着ないと人前には出せないと思ったのでしょう……笑
4.人の迷惑になること以外なんでも経験しろ
人の迷惑にならないことなら、お酒、タバコ、博打、なんでも経験しなさい、それがどこで役立つかわからないから。と言われて育ちました。タバコと博打はやりませんが、この言葉があったから教員もやったし、夜中の倉庫のピッキングのバイトもやったし、コージーコーナーのケーキ作りのラインにも入ったし、海外にも行きました。実際に無駄な経験は1つもなかったと思っています。
5.己の欲せざるところ、人に施すことなかれ
道徳の根幹は「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」だよ、何はなくともこれだけ覚えておきなさい、と祖母は言いました。確かに人間関係の本質を突いた格言だと思います。今もこれからも、わたしを貫く大事な指針の1つです。
祖母が天に召されてからの日々
私が大学3年生になる春、祖母はこの世を去りました。すい臓ガンでした。
正直、その頃の記憶が曖昧でよく覚えていないのです。お葬式の様子などは全く覚えていない。最後の記憶は病室で息も絶え絶えな祖母の手を握りしめたら少し反応があったシーンです。そこからのことは本当によく覚えていません。自分の心を守るために防衛本能が働いたのでしょうか、無意識に記憶から消し去ったみたいです。
祖母が亡くなってから20年以上経ちますが、最初の10年くらいは祖母の夢をみて、夢の中で祖母はいつも生きていました。
どんな内容の夢かは全く覚えていないのですが、確実に生きていると信じ込んでいるのです。
でもだんだんと覚醒が進み、夢うつつの状態の時、
「あれ、おばあちゃんって生きてるんだっけ?死んじゃったんだっけ?」
と自問自答する、そして、完全に目が覚めてから「あぁ、亡くなったんだ」と認識するという状態が続きました。祖母の死を完全に受け入れるのに10年くらいかかったということだと思います。
20年以上経った今も、家族で団らんするときも私から積極的に祖母の話を持ち出すことはありません。祖母の話をする時といまだに涙腺が緩むからです。
祖母とのお別れ時はすでに一人暮らしを始めていて、祖母と離れていることに慣れた頃でした。今思うと、このタイミングでよかったのだと思います。もし祖母の隣で寝ている頃なら、きっと私の心は一度壊れていたかもしれないから。
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後日談
少しスピリチュアルな話になりますが、友人のうちの一人に魂と話せるという子がいます。
数年前に女子会を開いていてワイワイしていた時、突然その子が、
「まって!誰かの魂が寄ってきた。ちょっと私にも一言いわせてって言っている!」
と言い出しました。彼女は意識を集中して、誰の魂が話したがっているのか確認したところ、その魂は私の祖母とのことでした。
「何て言っているの……?」
ドキドキしながら聞いてみると、彼女曰く、
「〇〇(私)の人生が軌道に乗るまでずっと一緒にいるからね」
と言っていると。
その言葉を聞いた時、私は間違いなく私の祖母だ、という確信がありました。祖母なら、絶対にそう言うし、絶対にいつもどこかで見守ってくれていると信じていたからです。
そんな信ぴょう性のない話を信じるのかと笑う人もいるかもしれません。私も、スピリチュアルな話をいつも100%信じるわけではないです。
でも、この時友人が代弁してくれたのは私の祖母に間違いないと思っています。祖母はいつも私のそばで見守ってくれていると信じています。それは、そう信じることによって、自分自身が救われるからなのかもしれません。
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