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いまさらだけど「おくりびと」を見た

いまさらながら、フランス人に勧められて映画おくりびとを見た。綺麗な映画であった。
日本でも確かすごい人気であったことを覚えている。なんで僕は見ていなかったのか、死が近い環境で育ったため、映画でまで死についてみたくなかったんだと思う。
そんなよさげな理由をつけときながら、ただ死者が苦手。映画でもドラマでも死者が苦手。それだけだ。
「おくりびと」でも多数の死者が出てくるが、なんとか乗り越えた。しかし、今夜は寝れそうにない。
死者を見すぎた結果、今夜も頭の中で死は近くなった。
死はすぐ隣のはずなのに、それを置いといて、生活している人々にとって、死の儚さを描くこの映画は心に響くだろう。そして死が身近になるかもね。
もはや死が身近すぎて、これ以上死を身近にさせられたら、もはや横には死が見えているまま生活しているみたいに僕はなりそうだ。日々、常に横に死が見える世界で生きるのか、それとも時には死を置いておいて生きていくのか、どちらがいいのか葛藤している。
ということで、この映画を夜に見るというのは僕にとって間違いだったようだが、とりあえず、インパクトのある綺麗な映画だという感想を受けた。
映画内の久石譲の音楽はとても素晴らしかった。生と死が混ざり合うような曲調、ドラマチックに描きながらもそこには何か儚さを含んでいるような音、それらはこの映画にさらに息を吹き込んでいた。彼の音楽と映画のマッチにはいつも感動させられてばかりだ。
肝心な映画について、あまり書いていないことにいまさら気づいた。うーむ。うーむ。
なんと言えばいいのかわからない。日本の文化が、所々に詰め込まれている作品だと思う。海外にいるからなおさら感じるかも。日本の利点、欠点が出てくる中で、日本の見え隠れする美の考え方。これに美しさを感じるのは、日本人独特の感性のようだ。
ストレートに想いを伝えず、想いを石に託す。ニュアンスで相手に感じ取ってもらおうとする。それが通じても通じなくても、その分かろうとするところに日本の感性ってあると思う。
今いるヨーロッパでは、ストレートに意見を伝えないといけない。それが常識、つまり普通だ。もしかしたら美しさなのかもしれない。この場所で日本の美しさの感性をいくら説明しても、完璧に理解できる人は少ない。これは生まれ育った環境の差の特徴であろう。
「人の心は覗くことができず、完璧には解ることができない。」というのは僕の常々のスタンスだが、ここにニュアンスで伝えようとする日本のやり方は、少なくともフィットしていると思う。相手のことを完璧にわかれないからこそ、分かろうとする行為自体にさらにトリックを入れる。わかりたくても、わからないというもどかしさを楽しむ。そしてわからないながら、自分の考えを見出していく。これが日本の美なのかなとも思う。
なんという人の感性か。共感のツールを発揮したり、抑制したりしながら、バランスで自分を守っていく。
日本の考え方って非常に独特なのかもしれない。

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