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ないことにされていること

先日、Eテレの、中絶に関する番組を見た。
中絶をした女性の心理的なダメージをケアすることが置き去りにされているというような内容だった。


ハートネットTV「中絶という、痛み 見過ごされてきた心と体のケア」
https://www.nhk.or.jp/heart-net/program/heart-net/1001/

命の選択をしているということを、私たちはいけないことだと思っている。
だから、中絶はあってはならないことになっている。
中絶する女性に対して医療機関の医療者でさえ、ヘルスケアをするのではなく、道徳的な観念を持ち出して、お説教したりする。
したくない中絶をしなければならない状況で、「次に妊娠できなくなるかもしれないのよ」と、助産師に言われたりする。

そのことで彼女たちはさらに傷ついていく。
中絶をしたくてしているわけではないという女性も、中絶をせざるを得ないという女性も、自分で選んでここにいるという女性も、「こんなことは、誰にも言えない」といった。
誰にもどこにも相談できないで、1人で思い悩んで、手術の後もずっと罪悪感を抱えたまま。
こんなことは思ってはいけない、と「ないこと」にしているのだ。

中絶は日本では合法ではない。
中絶する権利も日本では守られていない、そのようなことはあってはいけないことになっている。
優生保護法によるいくつかの条件に満たす中絶手術が行なわれているのみである。その数、だいたい年間16万人ほど。
16万人は”いない”ことになっている。自業自得で、傷ついても仕方がないことになっている。

あってはならない、または、それをすべきではない。
そういうことをしている人を目の前にすると、なぜか人はその人を正そうとする。
自分の正義感や倫理観、いかにあなたが間違っているか、もしあったならば、それが存在するとするならば、どのような恐ろしいことが待っているか、そういうことを蕩蕩と語り出す。

でも、そんなことをしても何の役にも立たないのではないか?と、私は思う。
そんなことは本人が一番よく分かっている。
そして、本人はそのようなことを求めているわけではない。

私は、なかったことにされている、もしくはそんなことは起きてはならないとしている、そういうことに昔から関心が高かった。

自分に起きたことを誰かに話した時、それはあなたの勘違いではないか、そんなことは普通起きない、それはあなたの思い違いだ、よく考えろ、そんな風によく言われた。

だけど、それはとても混乱する。
だって実際に、自分に起きたのだ。少なくとも本人は、起きたと認識しているのである。
それを私が間違っているから、そう思い込んでいる、と言われたら、私は何を拠り所に生きるのだろうか?
あなたにとって正しいこと、つまり、私ではないものをいつも気にして生きていかなければならない。
それはとても辛いし、苦しい。

ないことにされていること。
それをないことにしない。
私に理解できなくても、それはあるかもしれない。
そのように世界を見てみたい。
私はそう思っている。



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