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ともだち

ともだちって、なんだろうね?

私は、子どもの頃、ともだちが欲しかったけど、ともだちはいない、と思っていた。
学校に行くと、一緒にいてくれる、話ができる人が必要だったから、そういう人を探して、一緒にはいたけれど、厄介なことに、私はその子たちを好きじゃなかった。
好きじゃないけど、他に一緒にいてくれる人がいないから、ただ、一緒にいた。
向こうも、そんな感じだった。
だから、一緒にいる必要がなくなると、自然に離れていった。


私の10代は、自己嫌悪の極みのような10代だったから、「あの子、いいな」「なんか好きだな」「話してみたいな」という子には、近づけなかった。
私なんて、相手にされないと思っていたし、傷つくのが怖くて、行動することに臆病になっていた。
だから、こんなことを言うのも、思い出すのも、悲しいけど、正直に言うと、あの頃、私が一緒にいた人たちは、私が「私なんか」と自分を見下した分の「私なんか」という想いを持った人とだけ、一緒にいることができた。
今思えば、なんだか可笑しいとも思えるけれど、それだけ必死だったのだなとも思う。

好きではなかったけど、嫌われてはいけない。
一緒にいてくれる人がいないのは、学校という場所ではいろいろと不都合なことが多すぎたから。
嫌われてしまったら、一緒にいてもらえない。
そんな風に一緒にいた友達とは、大人になってからは、もうまったく連絡も取っていない人も多い。


健全ではない家庭の話を、健全な家庭で育っている人には話せなかった。ちょっと後ろ暗い、隠さなくてはいけないことだ、というのは子供心にもなんとなくわかっていた。
「お母さんと仲良し」「お母さんと喧嘩した」「お父さんがうっとおしい」そんなことを教室のなかで、クラスメイトに話せる人は、私から見ると、ものすごく健やかで、キラキラ眩しいような人たちだった。
そう言う人とは、ともだちになれなかった。
クラスメイトだと言うだけでともだち、と言うのは無理がありすぎる。
たまたま同じクラスになっただけで、席が近くても、うまく話もできないこともあるし、話が合わないことだってあるし。

本が好きな子と、物語の話ばかりしていた。
物語の中は、全部が空想で補えた。空想は限りなく、どんなことも可能で、力があった。現実に無力で、何もできない自分ではなくて、空想の中では自由だった。時々、空想と現実の区別がつかなくなることがあったけど。
空想の中に、親友がいた。親友に向けて、ノートを書いていた。
誰にも打ち明けられない話を、ノートに書いて、友達に読んでもらうように。実際には読んでくれる友達はいなかったのだけど、何かに吐き出しておきたかったのかもしれない。
私は、「誰にも言ってはいけない」と言われたことは、本当に、決して誰にも言わなかったから。
そのせいか、誰にも言えない打ち明け話を、突然そんなに親しくもない同級生からされたりした。
小さな子どもが親にも友達にも言えないことを、急に私にだけ打ち明けることもあった。
あの頃、私は、自分をスポンジみたいだなと思っていた。

大人になって、ともだちができた。
私のことを「ともだち」だと思ってくれている人たち。
私のことを尊重して、大事に思ってくれる。
河合隼雄という先生の本の中に、
「『夜中に車のトランクに死体があるんだ』と言って来たら、『そうか、一緒に考えよう』と言って、ともにいてくれる人」が本当のともだちってことだと書いてあって、私に、そんなともだちがいるかな?と思ったけれど、少なくとも、本当に困って助けが必要な時に、どんな助けがあるかについて、一緒に考えてくれそうな人たちは思い浮かぶ。
私が「助けて」って言ってもいい人たち。
私に「助けて」って言ってくれる人たち。
一人だけに頼ると負担が大きいけれど、少しずつ、いろんな人に頼ることは必要だ。頼るのは、ともだちじゃなくても、隣人でも知人でも、見ず知らずの人でもいいのだけど。
この人には「助けて」って言ってもいいんだ、と思える人がいるって、素晴らしい。助けてって言ってもいい人をたくさん作るのが自立することだと言う人がいて、本当にその通りだなと思っている。

あなたには、ともだちがいますか?
助けてって言える人。
お互いに頼ったり、頼られたりして、分かち合える人。
そばにいても、正直で自然なままでいられる人。
あなたを大切にしてくれる人。
私が大切にしたいと思う人。
あなたの話に、耳を傾けてくれる人。
そんな人がいるといい。
信頼して話ができる、話が聴ける、そんな人に出会えますように。



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