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【160/1096】「本番までにできるだけ準備する」を回避してしまう~CRMセッションから

160日目。IROIROのクラファン終了して、たくさんの方からお祝いのメッセージもらったり、みおちゃんのお手紙を読んでジーンとしたり。

とても豊かで楽しくて気づきがいっぱいあったクラファン期間でした。


さて、今日は私の提供しているCRMというセラピーのセッションで探求したことが、まったく想定外のところに行きついたので、そのことについて書いてみたい。
※CRMセッションを受けてみたい方は、私が提供できますので、メッセージまたはメールでお問い合わせください。

準備したほうがいいとわかっているのに

子どものころから、本当にそうだったのであるが、準備したほうがいいとわかっていて、その時間もスケジューリングして、やることも決めているのに、やらないということを繰り返していた。
試験前の準備とか、発表会前の練習とか、試合前の準備とか、プレゼンの前の準備とかそういうもの全般。
「もうやるだけやったから、あとは天命を待つのみ」
みたいな心境になるまで準備したということはなくて、何にもしないわけではないけど、「もっとやれたよね・・・」と思うことのほうが圧倒的に多かった。
ちなみに、料理もめったに味見はしない。(これは準備とは違うか・・・)

大人になってからは少しマシにはなってきたものの、
「自分がイケる」と思うまで準備する、というところまで行けないままに本番を迎える。
それで、大失敗してどうしようもなくなるみたいな経験もないのであるが、たぶん、そこそこで止まってしまうのは、この辺に課題があると思っていた。

やろうと思っている時間に、全然別のことやり始めてしまうとか、本を読んじゃうとか、SNSやっちゃうとか、そういうことがやめられない。
そして、時間が無くなって、慌ててやる。いつもちょっと準備が足りない気がする。やり切った感がないままに本番を迎える、みたいな感じ。
本番でやりきって当初の目的を達成することもあり、それはそれでよかったねということも、もちろんある。
が、この「やめられない」感じが、「回避」だなーと思っていた。
前よりはマシになっているからいいか、と流してきていたのだが、そろそろ向き合うときだなと思い、CRMのセッションで出してみる。

身体は必ず覚えている。そして、間違えない

今日のセッションは、いつもよりもリソースづくりに時間をたっぷりかけた。
CRMは、自分のリソースを最大限エンボディメントしてから、トラウマと呼ばれる反応の処理に入る。
このリソースが十分でないと、反応に入る前に回避してしまい、反応を再体験できない。
CRMは、思い出して再体験してそこを抜けていく(REMEMBERINGという)という処理を行う。

未完了の神経系処理を完了させることが、身体にとってもっとも自然なことだ。
この未完了が残っていると、身体に必ず力みが残る。
動物は、未完了を放置してそのあとの生活に入るということはしない。
人間だけが、凍り付いたままにしておける。
ただし、その凍り付いた状態では、自然な反応が起こせないので、とても不自然な反応で生活していくことになる。これが、「生きづらい」原因だ。
人間として自然な反応が起きないのであるから、生きづらいのは当たり前である。

ちなみに、動物の不動状態(凍り付き)からの回復は、ソマティック・エクスペリエンシングの動画のシロクマがわかりやすい。

11:00 シロクマの不動反応とそこから抜け出す様子(13:20)
https://bodyreading.hateblo.jp/entry/2015/07/12/022743  より)

ぶるぶると震えて、息を吹き出しているのが凍り付きからのディスチャージ(荷を下ろすとか、そんな意味)である。

私は、最近はわりとエンボディメントの状態がよくリソースも安定しているため、そこまでリソースづくりに時間をかけないで、すぐにREMEMBERINGのセッションに入っていたのだが、今日は、そこにたっぷり時間をかけた。
セラピストの先生にあとから聞いたら「今日はなんとなく必要だという直観で」と言ってた。さすがだ。

大人の私のリソースをだいぶ丁寧に強固にしてから、その体験の根っことなっているときに体験した私(過去の小さい私または過去世、または世代間連鎖の私などその時によっていろいろ)を呼び出して、その子のリソーシングも十分時間をかける。

このテーマを扱うと決めた瞬間から、身体は反応を出し始めていた。
まず、腰。どーんとした重い感覚と痛み。
腰から肩甲骨にかけての鈍い痛み。
頭の孫悟空の輪みたいなわっかの痛み。
そして、恥骨、膣周辺のもじょもじょとした不快感。

それらと一緒にありながら、リソースを固め、思い出していく。
身体はぜんぶ、忘れてしまった私の代わりに、全部全部を覚えている。
身体の反応に「間違い」はない。
その絶対の信頼があることが、今日のこのセッションを可能にしたと思う。

3歳の小さい少女

出てきたのは、3歳の小さな少女だった。
全身真っ黒で、ところどころに血が混じり、ぼろぼろの服を着て、顔の表情の判別がつかない。
怯えていて、誰も近寄らせたくない感じだった。

少女を見た瞬間、
「うわー、きたー。」
と思った。
これは、内的に起きていることだが、鮮明に見ている。
身体はすでに相当な反応を出してきている。
身体の出す反応を、ぜったいに邪魔しない。
ちなみに、この邪魔しないでいられるのには、相当なリソースがいる。
そのリソースが足りない状態だと、この反応をすぐに防衛するから。
これは、このセッション一回でつくられるリソースではなくて、今までつくってきたリソースを総動員していると言ってよい。

今日は、完全にこの3歳の少女と、アンブレンド化(自分と同一化しないということ)していた。
大人の私と少しも混じることなく、完全に3歳の子どもを再現できた。
これがすごい体験だった。
今までのセッションでも、アンブレンド化はできていたのだが、今日の体験をすると、今までは精度としてはまだ完全ではなかったのだとわかる。

この少女がすべてを背負って、たった一人ですべてを引き受けてくれていたから、わたしは生き延びたのだ。

凍り付きからのディスチャージが、何度も起きた。
ぶるぶると震えるディスチャージの不随意運動は、意図や意思では決して出せないものだ。
再体験に突っ込んだ時、これはもう逃げられない。ここを通り抜けるしかないのだと覚悟した。
覚悟はしたけど、たいへんだった。
なにしろ、ありありとその感覚を再現したので。
今起きているかのごとく。
今日ほどリアルに再現したことはかつてない、というくらいだった。

ディスチャージして完了させていくが、最後の感覚がなかなか完了しない。
リソースを総動員させて、呼吸と光を降り注いで通り抜けた。

この3歳の少女のしていることを、大人の私は、ただ見守っている。
これがCRMのすごいところだ。
この体験は、CRMでないとできないと思う。
大人の私が再体験するのではない。
この未完了を持っている少女が、再体験するのである。
それを観ている大人の私がいる。

通り抜けた後に、3歳の少女がつぶやいた言葉は
「できることは、ぜんぶやった」
だった。
大人の私が号泣したのは、仕方のない話だ。

少女は、きれいになって、かわいらしい顔で笑って、私の中に還っていった。

(このあとは、性暴力被害のことについての記述があるため、有料記事にします。)

向き合うべき時に、向き合うことが来る

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