余白名人になりたい。


春が来て、
空もひろくなって
飛行機も鳥も気持ちよさそうだな~

気づけばわたしは社会人になる直前。
学生という傘のしたからはい出て、
いろんな社会という大きな生きものと一緒に生きていくうえで
見たり読んだり聞いたり動いて予習しているつもりだ。


そんな中以前読んだ記事で、とても印象に残っている物がある。



喫茶ランドリーを運営している会社グランドレベルの取材記事。
もともと喫茶ランドリーさんは存じ上げていて、場所づくりとその地域との調和力(力を引き出すチカラ)に、素敵だな~どんな思いで始められたのだろう、と気になっていた。

興味本意で読んだも束の間、
これを読んで私は殴られた気がしたほどの衝撃を受けた。
悔しかった。私がしていたことが、違う方向に進んでしまっているのではないか、と。実際にそこに書かれていることを私は行っていたんじゃないかなって想いあたりがありすぎた。本質的な部分をすっとばして、ただの自己承認欲求を満たそうという傲慢な考えがあったなと。

それに実際気づいていて汚い。とは思っていたけど、
見ぬふりしていた、といったほうが正しいかな。

リアルな話、その後何度もその記事を読み続けて半分泣きながら、自分の考え方を改めようと思った。泣いていたのは、こんなに綺麗さっぱりにぶった切られたすがすがしい悔しさと、あと、本気で私のずっと貫きたい心持ちに気づけた嬉しさなのだと思う。

その記事との出会いは、その私に潜んで浸食しようとしていた汚いものを処分しよう、と決心した瞬間だったのである。



そんなこの記事の中に余白の話がある。

その余白ってのは人生を生きていくうえで
いろんなところで役に立つのではと。

今日はそんな余白最強説について。


余白とは・・・・

記事の中にも書かれているが改めて。

一般的に認識されている余白とは、
字のとおりでいくと『余った白』だから、何かがあってその余った何もない場所、っていう認識が強いかもしれない。

私が作りたい余白はそうではない。
何もない場所、ということではあるのだが、
私が名人として作りたい余白は、
意図して作られた『空白の部分』のこと。
記事中には『望みに向かって設計された余白』と表現されている。

何かを作る時に、余白を逆算して設計するっていうことだ。

むつかしい。
言語化するのがとっても大変だったのだけれど、
少しずつ咀嚼してくだいていこう。

余白を逆算して設計する。


言い換えるのであれば余白を設計してから、何かをそれに合わせてつくること。
これだとむしろ『余った』空白ではないんだけど、他に言葉が見当たらない。(笑)


例えてみる。
まっさらな土地に自分の家(愛犬のための庭つき)を建てるとする。
余白を逆算するということはこの場合、その土地に予めワンちゃんのための庭を作る、と考えてその場所を残して家を建てるということ。
家を建てる!だけではもしかしたら土地をはみ出して庭が作れなくなってしまうかもしれないし、逆に家が小さすぎて庭が広すぎてしまうかもしれない。
全体の土地の大きさを把握して、持ちたい庭の大きさを考え、家を設計できるようになりたいのである。

分かるかな?(笑)

まあ、そうした設計された余白は

人間性でも
イベントでも
空間づくりでも
ドキュメントでも
ビジネスシーンでも
大いに必要とされていることだと思う。
余白を意識して作ることでめちゃ良くなると思っている。


例えば
人間性での余白。
自分の中に余白を持つことで他の人を受け入れる余裕が生まれる
レンタル何にもしない人って最近話題だけれど
何もしないことで日本中の人から存在してほしい、という依頼を受けている。
たぶん彼の余白はいろんな人の抱える、どこにも置きようのない荷物の置き場所になっているんだと思う
そして依頼した人々は心が軽くなったり、満たされるのではないかな


また、イベントを企画するときもそうだ。
参加者さん参加型のものであれば、参加者の動きを枠組を作って、その間で自由にできる余白をつくる。
場所の確保、人集め、大きなテーマ設定、道具の用意などが枠組。
その与えられた中で、参加者はそのイベントに能動的に参加できるようになる。

私がやっている、料理イベント『みんなのキッチン』はまさにそうで、
当日まで集まる食材がわからず、その場で材料を見て、チームで考えてメニューを作る。
場所や人やテーマをあらかじめ用意しておいて、その中で参加者の皆さんのクリエイティビティを発揮できるように全力を注いでいる。


そう、その余白はただ存在しているのではない


その空白こそが目的を達成するための可動域、クッションであり不可欠だ。
レンタルさんの余白は人々の心のお荷物の預かり場所になっているし、
イベント企画の余白は参加者のクリエイティビティの土壌となっている。

余白をつくり、動ける範囲が明確になったことで、その中に入る人々やこと、モノの動きが一番活発になるのである。

ウォルトディズニーも、『ディズニーランドは永遠に完成しない。』という名言があるように、人々のディズニーへの好奇心がなくならない限り成長し続ける、そんな余白、伸びしろを持つことの大事さを説いているように思う。


だがしかし、すべて埋まって空白が皆無であったり
逆に空白でしかないこともよくない。

すべてやることやることをきっちり指示したり
逆に
全部自由にやっていいから、任せたよ!っていう指示ほど不自由すぎる物はない。

その余白と、何か用意するもののバランスは、結構難しい。

それらをうまく表現しているグランドレベルさんの喫茶ランドリー。

私もそのような余白づくりがしたい。

置くものとその空白のバランスを見極めて設計できるようになりたい。

あの記事に出会えなかったら汚い物とともに暴走して、中指立てられていたかもしれない。(笑)
記事に出会わせてくれた十中八九さん、そしてまっすぐで正しい言葉で大事なことに気づかせてくれたグランドレベルの田中さん、大西さんには感謝です。


明日からも、また、奮闘してまいる。

いろんな余白で、酔いしれるために。

私は、余白名人になりたい。


Mayu


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