見出し画像

【短編小説】ブロークン・ストロベリー

何が『愛』だ。
バキバキに割れたスマホを、もう一度壁に向かってぶん投げる。どん、と鈍い音がして、ガラス片が飛び散った。次々に流れてくる涙と鼻水をそのまま垂れ流して、何もかもをぼんやりさせるためにストロングゼロを飲む。空になった缶を、床に投げ捨てる。もう既に、酒とモンスターの空き缶が10本転がっている。
ぴんぽん、と間抜けにインターホンが鳴った。なんなんだよもう。ドア越しに、はい、と答えると、ヤマトです、と言われた。いつものお兄さんだ。玄関に置いといてくれますか、と言うと、サインはこっちでしておきますね、と去っていった。
行かないで。一人にしないで。酒の効果が、長続きしない。ふとこの地球で、私が一人になった気がした。ヤマトのお兄さんが遠ざかっていく音を聞きながら、ドアに背中をつけてずるずる座り込む。
愛してくれ、私を。

Twitterと、Instagramに、私はいる。そこにいる私は『土屋愛』なんてダサい名前じゃない。ヤマトのお兄さんが玄関前に置いていったAmazonの箱の中には、『哀さんへ』というメッセージカードが付いていた。
【哀さんいつも可愛い動画と写真ありがとう! 私も哀さんみたいになりたいです!】
という無邪気なカードの差出人は、投稿すべてに欠かさず反応してくれるれーむちゃんだった。れーむちゃんは確か元地下アイドルで、今はホス狂として界隈で有名だ。
中身のハードグミ30個とメッセージカードを並べて写真を撮って、各SNSにアップ。もちろん、れーむちゃんのアカウントのID、@remumumu_moonも忘れず。投稿しようと画面に指を滑らせたら、昨日割れた液晶で指を切った。薄く線の入った指先に、球体の血がぽつぽつ溢れる。
黒いボブカット、不健康な白い肌、強めなファッションと弱い投稿、バンドを追いかけ、フェスに行くのが好きな看護師。それが『哀』の特徴だった。そんな『特徴』、SNSじゃ簡単に作れる。痛み切った髪も、荒れまくった肌も、カメラアプリで何とかなる。フェスに行くのは出会いのためだし、職業も看護師じゃなくて歯科医院の受付バイト。私は『哀』を演じている。誰かに愛してもらうために。
そのはずだったのに、昨日、彼氏の冬也と連絡が取れなくなった。全部のSNSで連絡を取ろうとしたけど駄目だった。多分全部ブロックされた。冬也は一年前にフェスで出会った他府県の25歳で、彼の家がどこにあるかは知らない。最寄り駅だけは知っていたから、近くまで行ってみようかとも思ったけど、結局行かなかった。もう何度も、この手の『切り方』は経験してきている。フェスで会った大概の男は、自分の家を教えなかった。会った瞬間に、私のことを『地雷』だと察知するんだろう。
ぽん、とLINEが来る。一瞬冬也かなと思ったけど、違った。
【松下:こんにちは、土屋さん。今日仕事入ってると思うけど、今どこ?】
見ないふりをして、ベッドに潜り込んだ。昨日泣きすぎて、目が腫れている。マスクをして目元しか見えない職場に、行く気にはなれなかった。こうして、色んな職場を転々としている。

【てんちゃん:@deartears_Red09
@lonelygirl_ai_0525さんへ
かわいい!】
【KYUA:@iam9a_follow
@lonelygirl_ai_0525さんへ
もしかして、昨日発売したトップスじゃないですか? 私も買いました!】
【bb:@VJ7hst8y2vngi_
@lonelygirl_ai_0525さんへ
可愛いですね。彼氏はいますか】
【藤見俊:@nijyuujihannoL
@lonelygirl_ai_0525さんへ
安定の可愛さ】
次々につくコメントを、ろくに確認することもなく片っ端からいいねをつけていく。
冬也も、元々は私のファンだったらしい。フェスで声をかけてきたのは向こうからだった。
きっと私は、ビンゴカードの下から二番目、一番左端辺りの女なんだろうな。空いても、空かなくても、どっちでもいい場所。経験として踏み台にされるだけの存在。今まで付き合ってきたあいつも、あいつも、あいつも、あいつも、もちろん冬也も、多分今頃友達に、「ま、経験としてはよかったかな」とか言ってるんだと思う。
いつまで経っても、真ん中の女になれない。その人にとっての絶対になれない。
【哀:@lonelygirl_ai_0525
ねえ、私じゃだめなの?】
さっき加工した自撮りと一緒に、そんな言葉をつけてツイートした。もう何年も、何年も、同じ言葉を言い続けている。みんな知ってるはずなのに、誰も私を選ばない。
【茅:@CGY_7star
@lonelygirl_ai_0525さんへ
今日渋谷でネクストのライブあるけど哀ちゃん来る?】
投稿した自撮りに最初についたコメントは、そんな文章だった。私じゃだめなの? 答えてよ。
【哀:@lonelygirl_ai_0525
@CGY_7starさんへ
きょう行くよ、会おうね】
言いたいことは全部押し殺して、そんなコメントを返す。愛してもらえるように。

「……あの、ちょっといい?」
ネクストのライブはそこそこ人が入っていて、私は後ろの方でドリンクを飲みながらぼーっと眺めていた。声をかけられたのは、ネクストのボーカルHiroseが、熱くドームツアーへの夢を語っている時だった。聞いてやれよ、お前の好きなバンドの夢くらい。
「何?」
振り向くと、私より少し背の高い男が立っていた。会場が暗くて、顔がよく見えない。
「あの、さ。間違ってたらごめん。土屋愛、だよね」
ひゅっ、と喉の奥で空気が絡まる音がした。
「違う」と、咄嗟に顔を伏せる。
「え、嘘、違った? だったらごめん、間違えた」
男は慌てた様子でそう言うと、困ったように後ずさりする。
土屋、と呼ばれたその瞬間から、私の頭はパニックになっていた。その名前で呼ぶ人なんか、この辺りにいないはずなのに。その名前で呼ぶ人なんか、全員と縁を切ったはずなのに。違う。私は土屋愛なんかじゃない。『哀』だ。
遠ざかる男の背中を見ながら、私は深呼吸した。少し落ち着きを取り戻した私の頭が、さっきの男の正体について考え始めた。いや、違う。聞いたことがある声だった。いつだったか、頭の中の私がタイムスリップし、数年前、数十年前の記憶で今の男を探す。
『土屋、お前なんでいつも孤独なの?』
学ラン姿の男が、さっき聞いたあの声でそう言った。見つけた、頭の中にあいつはいる。
私は、遠ざかっていく背中を追いかけて、腕を掴んだ。
「うわっ、何……」
「谷口でしょ、お前」
私がそう言うのと、男が振り返るのが同時だった。男が振り向いた丁度その時、ネクストが最後の曲を紹介し、会場のライトが一瞬眩しくなった。ちかちかと点滅するライトに照らされ、フラッシュバックするかのように現れたその顔は、確かに、高校時代の同級生谷口だった。

「まさかネクストのライブで会うなんてなー」
ライブ後に入ったファミレスで、谷口は腹が減ったと大盛のハンバーグプレートを頼んだ。
「……ライブ終わりってお腹いっぱいじゃないの? 私絶対食べれないんだけど」
「嘘だろお前。ライブ終わりこそ腹減るんじゃねえの」
「変わってるね、昔から」
「それ、俺の台詞な」
私は、アルコールの飲み放題だけを頼み、もう既にワインを二杯飲んでいる。
「何、谷口酒飲めないの」
「俺、酒無理なんだよ。アレルギー」
「じゃあ何が楽しくて生きてんの?」
「お前は酒しか楽しみねえのかよ」
谷口はハンバーグをナイフで綺麗に正方形に切り分け、丁寧に口に運んだ。
谷口と出会ったのは高校生の時で、隣の席になったのをきっかけにバンドの話をするようになった。マイナーバンドが好きだった私たちは意気投合し、おそらく高校時代のほとんどを二人で過ごした。周囲からはカップルだと思われていたけど、本当はカップルなんかじゃなかった。
「土屋、お前めちゃくちゃ変わったな」
「そう? どこが」
「見た目。もっと健康的だったのに」
そういえば、谷口はバスケ部だった頃の私しか知らない。
「女バスの奴らと連絡取ったりしてんの?」
谷口に聞かれて、私は首を左右に振った。「あいつら、卒業してからもやたらグループで居たがってうざかったから」と言うと、谷口は「女子ってそういうとこあるよなー」と苦笑した。
「でも今の土屋も可愛いよ」
「ああ、そう」
「……そんな反応薄いことある?」
「言われ慣れてるから」
可愛い、なんて毎日言われてる。そんな言葉、別に要らない。谷口は少し驚いたように目を見開いたが、それ以上は何も言ってこなかった。私は近くを通りがかった店員を呼び止めて、梅酒を頼んだ。
「谷口、ネクスト好きなの」
私が聞くと、谷口はうーんと首を捻った。
「ネクストなぁ。昔好きだったけど、最近はあんまり。昔は割とほら、クール路線だったじゃん。音楽を黙々と追求します、みたいな」
「ああ、そうね」
「最近は何ていうか……ハングリー精神前面に出すようになっただろ? いや、いいんだけどさ。いいんだけど、路線変更急すぎじゃね? って思って、冷めつつある」
「ああ、それはマジで分かる。最近『武道館でライブするんで』とか『ドームツアーやるんで』とか当たり前のように言いすぎ」
「昔はなー、MCもほぼ無くて音楽一本勝負、みたいなとこあったけど。ドラムのYUUとかネタツイしすぎ」
「しかもスベってるし」
「言えてる」
梅酒が運ばれてきた。店員が机に置くか置かないかのうちに持ち上げて、店員が後ろを向いて歩き始めた頃にはもう飲み干していた。
「……速くね? 飲むの」
「そうかな」
「家で飲みすぎてんじゃねえだろうな」
「飲みすぎてる。完全に飲み過ぎてる。最近彼氏にフラれたし。つい昨日」
「マジで?」
「重いんだって、私」
長く長く息を吐いてから、私は何かに気付いて谷口から目を逸らした。谷口も、居心地悪そうにしている。

仲が良かったはずの谷口と疎遠になったのは、私に三人目の彼氏が出来た高校卒業間際だったと思う。
「またかよ」と、谷口は机に突っ伏した。谷口とEND TAXIのライブに行く約束をしていた日が、彼氏の誕生日と被っていた。
「いいじゃん別に。バンドのライブくらい一人で行けば」
「いや、いいけどよ……」
谷口は大きく息を吐いて、私をまじまじと見た。
「お前さ、俺がお前のこと好きって知っててそういうことするわけ?」
私は、そうだよ、と答えた。谷口はことあるごとに、私に好きだと言う。
「俺だってさ、一応デート気分で準備してたんだけど」
「勝手にデートだと思われちゃ困るんだけど。私はただライブに行く友達だと思ってるだけだし」
「ほんとお前そういうとこだぞ」
「どういうとこ?」
谷口は大袈裟に、はあ、とため息をついた。
「どうせまた二か月とかで別れるじゃん。俺にしとけばいいのに」
「やだよ、そんなの」
「なんでだよ」
「だって、好きじゃないし」
俺だって楽しみにしてたんだからよ、と、谷口はひたすら文句を言い続けた。
そして、予想外にも、私はその時の彼氏と一年以上付き合うことになる。その間他の男と連絡を取っている暇は無く、気が付けば卒業を迎え、谷口に連絡をするタイミングを逃していた。

「……ちなみにだけどよ、俺今でも割と土屋のこと好きなのよ」
困ったように谷口は言った。
「へえ、そうなんだ」
「反応薄いんだよなぁ」
「言われても何も思わないもん。だって私は好きじゃないし」
私は氷を噛み砕きながら言った。
「でも、やっぱり話が合うなあとは改めて思った。私たち、めちゃくちゃいい親友じゃない? ねえ、親友になろうよ」
「俺の話聞いてた? お前のこと好きだって言ってんだけど」
「はいはい、もういいから。親友になろ、親友に。彼女と何が違うの? 彼女よりもっといいじゃん」
「いや……俺が彼氏にならなかったら、お前別の男とくっつくってことだろ? それを阻止したくて言ってんだよ」
「いいじゃん、気にしなければ。谷口も彼女作るの頑張って。紹介してあげようか? 歯科衛生士」
「お前今歯科衛生士なの?」
「違う。歯医者の受付バイト」
読めねえー、お前。谷口はそう言ったきり、ハンバーグの残りを口に詰め込むのに徹し始めた。私は近くを通りかかった店員を呼び止め、メニューを見て散々迷った挙句、結局ワインをもう一度注文した。

足元がおぼつかない。しっかり地を踏みしめて歩いているはずなのに、地面が私から逃げていく。地面も、世界も、私を置いていく。やっぱり私は誰にも必要とされない。スマホを探して鞄をひっかきまわし、ポケットを叩いてみるけど見つからない。
「……に、何探して……ホは俺が今持って……缶踏まないように……どうしても要る?……ず飲め……」
ぼんやりした声だけが聞こえてくる。家のベッドの匂いがする。スマホが欲しい。通知を確認しなきゃいけない。結局ネクストのライブに行ったのに、フォロワーに会わずに抜け出してしまった。何で抜け出したんだっけ、ネクストの最後の曲って聴いたっけ。ふと目の前に現れたスマホを捻るようにして取って、慣れた手つきでTwitterを開いた。
「……だお前……うめいじんなの?……やめとけって……」
誰かがスマホを取り上げようとする。やめてよ。今の私はきっと、最高に可愛い。酒に酔った女の子は、いつもよりずっと可愛く映るって私は知ってんだから、邪魔しないで。
Twitterの通知欄は、99件にカンストしてから見るようにしている。今は57件。まだ見るタイミングじゃない。いつもパンパンの愛で満たされた自分じゃなきゃ、見る気になれない。インスタを開いたら、一番初めのストーリーに手が当たった。韓国アイドルの、ダンス投稿。あーあ、可愛いなぁ。なんで私って韓国に生まれなかったんだろ。韓国で整形したら、もっと安く、可愛くなれるかな。そしたら今度こそ、誰かに愛してもらえるかな。
「……う帰るか……と寒くないようにし……」
確か私、今彼氏いない。なのになんか、男の声がする。誰だっけ、まあいいか、どうにでもなればいいよ。
「……ゃあな……らくするから……」
ばたんと、扉が閉まる音がした。行かないで。一人にしないで。立ち上がりたかったけど、もう立ち上がれない。ふと不安になった。上も下も横も地面も分からないけど、多分私は今、一人だ。とてつもない不安に襲われた。まだ冷蔵庫に酒があったはずだ。酔いが冷めないようにしないと。不安にのしかかられて、身動きが取れなくなる前に。
ベッドから降りようとしたけど、本当に地面が見つからなかった。私は全てを諦めた。メイクも落としてない気がする。肌が呼吸出来ていない気がする。今日、なんか目がちかちかする。そういえば、ネクストのライブ行ったんだっけ。
ふわふわと現実と夢を行き来し、すとんと思考が暗がりに落ちる直前、そういえば谷口に会ったんだっけ、と思った。

谷口から連絡があったのは、それから2日経った後のことだった。
【生きてる?】
という谷口からのLINEに、私は数秒で【生きてる】と返信した。
【既読はや】
【ねえ、なんで何もしなかったの?】
谷口から、一瞬返事が途絶えた。
あの後二日酔いの中で目を覚まし、谷口が家まで送ってくれたことに気付いた。谷口は私のことが好きだ、ということも知っていた。だから素直に疑問に思った。別に何をしても怒らなかったのに。素面の時なら断ってるだろうけど、酔って自暴自棄な私なんて、おそらく何をしたって断らない。
【まあいいや】
谷口が画面の向こうで戸惑っているのが容易に想像できたから、私は話を変えることにした。
【今晩暇?】
【いや、分からん】
今度はすぐに返事が来た。
【仕事?】
【そう、何時に終わるか分からん 何で?】
【私仕事辞めた、暇】
また谷口からの返事が一瞬途絶えた。
ほんの少しある貯金を切り崩しながら、私はまた新しいバイト先を探していた。『看護師』だと名乗っている以上、医療に関わる仕事をしていたかった。まあでも、本気で困ったらまたコンカフェの面接を受けようとも思っていた。以前一瞬だけコンカフェにいたことがあるし、その時より私は有名になった。多分、受かるだろう。分かんないけど。
【頑張って定時退社するわ】
少しの沈黙の後、谷口からはそう返信が来た。
駅前の居酒屋で待ち合わせして、レモンサワーを2杯飲んだ後、待ち合わせ時間より30分遅れて谷口はやってきた。
「すまん、やっぱ遅れた」
「お疲れー」
谷口はスーツだった。暑い暑い、と言いながら、手慣れたように上着を脱ぐ。
「で? お前仕事辞めたんだって?」
「そー、辞めた」
「なんだっけ、歯医者の受付だっけ」
「先輩がウザいから辞めた」
本当は自分の遅刻癖が直らなかったからだけど、言えなかった。高校の頃からしっかり成長している谷口に、そんなガキっぽいことは言えないな、と思った。
「頼むから今日はセーブして飲んでくれよ」
「なんで? 酔った方が好都合なんじゃないの」
「うるせえなぁ、お前は」
谷口は店員に、短くウーロン茶を注文した。しばらく二人でメニューを眺めて、焼き鳥とポテトとビビンバ、私は3杯目のレモンサワーを頼んだ。
「どうすんの、これから」
おしぼりで手を拭き、目を合わせずに谷口が言う。
「考えたくないから酒飲んでんだけど」
「いや……そうもいかねえじゃん。金は?」
「貯金がもうちょっとある」
「仕送りとかは?」
「ない。親と縁切ったし」
縁ってそんな簡単に切れんの、と谷口は口先だけで言う。
「じゃあ今日は奢ってくれる?」
「は? なんでそうなるんだよ」
「だって、私のこと好きでしょ?」
あのなあ、と、目の前の男は頭を掻いた。黒い短い髪、誠実そうな顔、第一ボタンが開いたワイシャツ、狭い肩幅、隣の席に無造作に置かれた大きい黒いリュック。何もかも、普通だ。
「別に奢るつもりで来たからいいけどさ」
「よっしゃ」
「いや、それをお前から言うのは違うじゃん……」
「どういうこと?」
「お前が一応払おうという意思を見せて、いや俺が今日は払うから、がやりてえんじゃん、俺は」
「知らないよ、そんなの」
「うぜー、お前」
谷口のウーロン茶と、ポテトが来た。箸で摘まんで口に運ぶ。
「ねえ、今度野外フェスあるじゃん」
「うん」
「行く?」
「行きたいけどまだ分かんないわ。仕事あるし」
「その日くらい休めばいいでしょ、有給無いの?」
「あるけど、あるので休みます、とはいかないわけよ、社会人は」
「社会人って何なんだろうね」
しばらく、「社会人とは何か」について二人で話し合った。谷口は「働いてる人」と言い、私は「じゃあ今ニートの私は社会人じゃないのか」と反論した。そういうわけじゃないけど、イメージとしてはそうじゃん、と言いながら、谷口は運ばれてきたビビンバを小皿に取り分け、先に私の前に置いた。
結局答えは出ないまま、またフェスの話になって、谷口に恋人ができないっていう話になって、結局この辺りからまた記憶が曖昧になった。後々確認すると、もうその頃には私の前に、中途半端に残ったレモンサワーのグラスとハイボールのグラスと梅酒のグラスが置いてあったらしい。
「やっぱさー、親友だよ、谷口は」
あんまり働かない馬鹿な頭で私は言った。
「だってこんなに話合うんだもん」
「俺、それ喜ぶとこなの?」
私は机に突っ伏した。
「あーあ、何で谷口は女じゃないの? 女だったらルームシェアとかしたらさ、楽しそうじゃん」
谷口は何も答えなかった。何も答えず、私の髪の毛がポテトについてきたケチャップに浸かっているのを救出し、新しいおしぼりで拭いた。

「うーん、ちょっと難しいかな」
胡散臭そうな顔をした、30代半ばくらいのコンカフェオーナーは、そう言って私に履歴書を突き返した。
「え、駄目なんですか」
思わずそう聞き返した。目の前のオーナーは、面倒くさそうに軽くため息をついて、「君、元ブラネコでしょ?」と言った。
ブラネコというのは『blood cat』の略で、私が以前所属していたコンカフェのことだ。
「……そうです」
「ブラネコの子はちょっとね。ブラネコが潰れたの、なんでか分かる?」
私は何も答えなかった。潰れた理由が分からない、というのもあったけど、それより目の前の男が偉そうなのが気に食わなかったから抗議する意味の方が強かった。
「ブラネコってさ、いわゆる『病み系』の子ばっか集めたコンカフェだったでしょ? でも、ガチの子集めちゃったじゃん。一応コンカフェって、お客さんを楽しませるのが第一でさ、キャストの子は楽しませなきゃいけないんだよ、お客さんを。じゃなきゃまた来ようと思ってくれないでしょ? リピーターがあんまりつかなかったんだよね、ブラネコは。うちだって商売だから、リピーターついてくれないと困るわけ。君はちゃんと客のこと楽しませられるの?」
何も答えずに俯いていたら、オーナーは大きなため息をついた。
「ここの客層は君には合ってないから、他当たった方がいいよ。うち、どっちかっていうとアイドルっぽい子が多いからね。応募するときはちゃんとその店のことリサーチしてから来な」
形だけのありがとうございました、を言って外に出た。ちらりと店内を覗いたら、確かに私みたいな子は一人もいなかった。
【哀:@lonelygirl_ai_0525
必要とされないなぁ、どこ行っても】
呟いた投稿は、勢いよくインターネットの波に飲み込まれて見えなくなった。

「ねえ、今一人?」
やることがなくて駅前をふらふら歩いていたら、声をかけられた。振り向くと、スーツ姿の男が立っていた。年齢は30~40代くらい。容姿が悪いわけではないけど、何となく知り合いにはいてほしくないタイプだなと思った。何というか、口元にこちらを馬鹿にしたような笑みが浮かんでいるような気がした。
「一人」
と答えた。
「どっかのコンカフェのキャスト?」
私は思わず噴き出しそうになりながら、首を左右に振った。多分この人には、コンカフェキャストだろうがアイドルだろうが女子高生だろうが、女子がみんな同じ顔に見えているんだろう。
あれ、違ったか、と頭を掻いたそのスーツは、わざとらしく腕時計をこちらに見せた。高そうではあるけど、メンズの腕時計は見てもあまり分からない。
「ねえ、今から時間無い? 一緒にそこのカフェ行こうよ」
スーツが親指で指したカフェは、最近できたお洒落な店で、品のあるパフェが売りらしい。意外にもいい趣味だ、と思うと同時に、女の子を誘うために色んな情報をかき集めているのはなんか滑稽だな、とも思った。そんな大層な腕時計をつけてる人なら、なんかもっと、こう、誘う場所もあるだろうに。
「奢ってくれるの?」
私はそう聞いた。もちろん、とスーツが言ったので、付いていくことにした。私は無職で、お金が無い。でも、甘いものは嫌いじゃないし、あの店は前を通るたびに気になっていた。いい機会だし、別にこのスーツが後で何を要求してこようとどうでもよかった。見た目も悪いわけじゃないし。お金も持ってそうだし。
「この店、俺も初めてなんだよね」と、スーツはメニューをこちらに差し出した。私にとっては気軽に手が出せない値段だったけど、スーツはそうでもなさそうだった。やたらと腕時計を見せつけてくるから、一番高いストロベリーパフェを注文してやった。運ばれてきたパフェは、言いたくないけど本当に綺麗で、食べるのが惜しいくらいだった。それでも私は、詰め込むようにして口に入れた。美味しいとは思ったけど、スーツに見られながら食べるのはなんか嫌だった。ふと、冬也のことを思い出して、鼻の奥の方が痛くなった。おかしいな。なんで私、こんなどうでもいいおっさんにパフェ奢られてるんだっけな。なんで今冬也のことを思い出したんだろうな。
「ちょっと!? 何やってんのよ!」
不意に、すぐ近くで甲高い声がした。ふと顔を上げたら、30~40代くらいの女の人が鼻を赤くして立っていた。
「お、お前!? なんでここにいるんだよ!」
私の向かいから、焦ったような声が聞こえた。その声がスーツの声だと分かるまで、少し時間がかかった。
「今日はお前、仕事のはずじゃ……」
「仕事が早く終わって、友達とお茶しに来たらこのザマよ。もう二度と浮気はしないって約束したはずでしょ!?」
女性の声が震えていた。あー、なるほど。このスーツ、既婚者だったんだ。さりげなく左手の薬指を確認したけど、指輪はしていなかった。これじゃあ自衛のしようがないじゃん。
「なんなの、この女は」
震える女性の声がこちらに向いたのが分かった。私は虚ろな目で女性を見た。女性の目はギラギラに光っていた。アイシャドウもそうだけど、特に瞳が光っていた。なんか、この人って生きてるんだなあとぼんやり思った。
「こ、この子はさっき会ったばっかりで……」
スーツ、めちゃくちゃ言い訳下手じゃん。この状況も相まって、私は噴き出しそうになった。そんなに言い訳下手なのに、なんで浮気しようとしたんだよ。ていうか、なんで嫁が来そうなお洒落なカフェを浮気現場に選んじゃったんだよ。浮気っていうか、パフェ食べただけだけど。もっと閉鎖的な場所に誘えよ。その方がリスク少なかったはずじゃん。
「言い訳なんて聞きたくない!」
がしゃーんと大きい音がして、床にパフェのグラスが散らばった。私が食べた後の食器だということに気付いて、ああ、勿体ないな、と思った。このグラス、高そうだったのに。そういえば、この女の人の履いてるスカート、なんか見たことあるな。どっかのブランドのやつかな。お金持ちって、食器を割るためのものだと思っているのかもしれないな。やっぱり私には分からない世界だな。遠くの方で、警察、警察呼んで、という声が聞こえた。さっきこのテーブルに注文を取りに来た店員さんの声だ。ごめんね、店員さん。なんか、大変なことになっちゃって。
ふっと目の前が歪んで、次の瞬間には私はガラスの破片の上に転がっていた。慌てて立ち上がろうとして手のひらを床につけたら、ガラスの破片で手を切った。悲鳴が上がっていた。ぼんやり聞こえる声を聴くに、どうやら私は泣き叫んでいる女の人に髪の毛を掴まれて椅子から引きずり落とされたらしい。なんかもう、どうでもよかった。冬也、通りかからないかな。近くに私のフォロワーがいたりしないかな。
倒れた時に頬もガラスで切ったらしく、店員さんが来てタオルを貸してくれた。ありがとうございます、と言おうとしたけど、目を背けられた。そっか、店員さんにとっては、私が全ての元凶なのか。私がスーツと浮気なんかしてるからこうなったと思ってるのか。なんでうちに来たんだろう、帰れよ、と思ってるんだろうか。
サイレンが聞こえ始めた。どやどやと警察が入って来た。私は、若い女性警官に肩を抱かれて外に出た。外は快晴。雲一つない快晴だった。私はすぐに空を見るのをやめて、目を下に落とした。アスファルトは黒く、一番私の心に優しかった。

「……わ……んだよ……」
遠くの方で声がする。誰の声だっけ。からんからん、と、缶と缶がぶつかる音。私はうっすら目を開けた。ゆらゆら揺れる視界に、見覚えのある顔がカットインした。
「あ、谷口じゃーん」
谷口じゃん、と言ったつもりだったけど、酔いのせいで間延びした。
「お前さぁ、どんだけ飲んだんだよ」
谷口は、はっきりそう言った。私が聞きとれるようにしてくれているらしい。聞き取れはするけど、何を言われているか、あまり理解はできなかった。
「顔怪我してるじゃねえかよ。何で切ったんだ」
「谷口、なんで来たの?」
「なんでって……お前が呼んだんだろうが」
「嘘だよ、呼んだ覚え無いよ」
「電話かけてきただろ」
そうだっけ、まあもうどうでもいいや。私は体を起こして、無意識のうちにテーブルの上を探り、チューハイの缶を探した。
「もう飲むなって」
谷口の声が、最初よりはっきりしてきたのが怖くて、私は谷口を押しのけた。ふらつく足で立ち上がったら、胃から何かが口に向かってせり上がってくるのを感じた。
「気持ち悪」
「え、嘘、吐くなよまだ」
谷口に引きずられるようにして、トイレに連れ込まれた。
「ねえ、見ないでよ」
「そういう意識はあんのか。こっち気にしてる余裕ねえだろ」
ねえだろ、の「だ」を聞くか聞かないかのうちに、私はトイレに胃の中のものをぶちまけた。谷口がすっといなくなったと思ったら、どこから見つけてきたのかタオルと水を持って帰って来た。
「見ないでって」
「なんでだよ」
「可愛くないから」
何かが心から涙腺を這いあがってきて、私はトイレにしがみついて泣いた。タオルを握りしめたまま泣いた。トイレを流そうとして、中に散らばった吐しゃ物を見て、今日食べたパフェを思い出した。デカいストロベリーパフェ。甘さ控えめの生クリームと、さりげない塩味の利いたビスケット。断面から果汁が溢れて輝く苺。それを口に大胆に放り込む私と、それを馬鹿にしたような顔で見つめるスーツ、散らばったガラス片。鞄の中から出てきた、くしゃくしゃの履歴書、必要とされない人間、気をつけなさいよと分かったように説教する女性警官。自分が泣いている理由を思い出した。本当に何も上手くいかない。ただ私は、愛されたかっただけなのに。
「俺はお前のこと、ずっと可愛いと思ってるよ」
谷口が、私の後ろでぽつんと言った。
「駄目なんだよ」
私は泣きながら即答した。
「私が愛したい人に言われなきゃ、意味無いんだよ」
流れていく水。綺麗さっぱり流されていく、私の吐いたパフェ。背後から小さい声で、なんでだよ、と聞こえた。それはこっちが聞きたい、と思った。
「……私、なんで谷口のこと好きにならないんだろうね」
それができれば、幸せになれるのに。本当は、何度も谷口のことを好きになろうとした。自分のことを好きだと言ってくれる人なんて、もう現れないと思ったから。ここを逃せば、もう後は無いことも分かっていた。なのに、いつも思い出すのは元カレたちの顔で、ふらっと付いて行きたいと思うのは、どこの誰とも分からない、街中を歩くろくでもない男の顔なのだ。
後ろからペットボトルの水を渡されて、それを受け取って振り向くと、谷口はもう既に後ろにいなかった。トイレの外から、俺だって知らねえよ、と声が聞こえた。その声が少し震えていたから、私はトイレから出られなくなった。

気付くと、私はトイレの床で眠っていた。ガンガンする頭を押さえながらトイレから出ると、もう谷口の姿は無かった。転がった空き缶を蹴飛ばして部屋の隅に寄せながら移動する。ベッドに転がり、スマホを開く。Twitterを確認する。
【哀:@lonelygirl_ai_0525
なんで幸せになれないの】
投稿した覚えのない投稿がある。酒に酔って朦朧としているときに投稿してしまったらしい。私にはよくあることだ。消そうと思ったけど、とりあえず付いているリプだけでも確認することにした。
【YUMA:@G7tg6cx98nb
@lonelygirl_ai_0525さんへ
僕が幸せにするよ】
【茅:@CGY_7star
@lonelygirl_ai_0525さんへ
今度フェスであお】
【れーむ: @remumumu_moon
@lonelygirl_ai_0525さんへ
でも、幸せそうな哀さんなんか哀さんじゃないよ笑】
体をぎゅっと丸めた。震えながら朝を待った。夢に谷口が出てきたような気がしたけど、朝になってしばらくしたら、その記憶もすっかり消え去ってしまった。やっぱり親友になってくれればよかったじゃん。呟いた言葉は、やっぱりインターネットと空に浮かぶ雲に流されて消えていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?