こどもはなぜ電車の窓から外の景色を観たがるのか

「楽観主義と悲観主義の彼岸は未知のものに対する態度で決まる」 byハナー

究極の「未知のもの」とは「未来」である。人類はまだ厳密な意味での「未来予知」を手に入れていない。歴史的事実と論理的推測による「未来予測」がせいぜいである。

なので楽観主義者は未来の善意を期待し、悲観主義者は未来の悪意に慄く。

楽観主義や理想主義、悲観主義は現実主義に通じてくる。モノゴトが見えるようになればなるほど、悲観主義になっていく傾向がある。

こどもというのは大体が楽観主義者である。誕生日や夏休み、クリスマスや正月を指折り数えて待ち、その楽しみを迎えることを疑わない。大人になるにつれて悲観主義へと推移していくのは「寿命=自分の残り時間」が少なくなることを心得るからではないか?とも思う。ゆえに大人ほど予測できる未来に向けて準備をするようになる。

こどもはなぜ窓の外を見たがるのか? そこに未知のものがあるからだ

・・・と結ぼうとしたのだが、「じゃあなぜこどもは真っ暗な2階に上がろうとしないのか?そこに恐怖(オバケ)がいるからだ」という返しが思い浮かんでしまった(汗)。

ええっと。おそらく「未知のもの」と一口に括ったのが乱暴だったのかもしれない。「楽しみを期待させる未知のもの」と「恐怖を誘発する未知のもの」があるかな?

以下、友人との会話による掘り下げ

友人A

未知そのものというよりも、未知に対して対処法を知っているかどうかにかかるのではないかと私は思いました。
楽観的な場合は「なんとかなる」という周囲にとっては漠然とした感覚でしかなくても本人には明らかに
「未知なものが来ても対処できる、問題はない」
という確信が存在し、逆に悲観的な場合は
「その未知なものに対して対処できない、問題がある」
という確信が存在しているからこその現象かなと。

一定以上に物事を知り、確定事項が増えると悲観的にも楽観的にも揺れにくくなるのではないかとも。
自分の不幸にしか目がいかない状態よりも幸福へ至る道も知っている状態の方が悲観的になりにくいというように。
本当にどうしようもない状態に至ったとしても知識や経験の中から引きだして足掻けるようにもなるし、そこに幸運を祈り挟み込むまでの時間もかかるようになる、というように。

なぜ未知が期待に溢れるか、それは入ってくる情報がそれに期待を膨らませる方向にやってくるから。
なぜ未知が恐怖に溢れるか、それは理解の範囲とそれを越えた域から生命の危機を感じさせるから。
そんな風に感じました。

ハナー

おお、ありがたい。
「対処を知ってるかどうか」には一定の説得力を感じます。「暗い2階のお化け」については説明が合致します。

ただ「電車の窓の外の景色」の場合、対処するとかしないとかとは少し違うかなぁと。この点の考察があるなら興味があるのでもう少しお聞かせください。質問投げっぱなしではなく、私も考えておりますが。

友人A

窓の外を見たがるという点においては4つに分けてみようと思います。

まず、旅行などで初めて行く場所の場合、電車の窓の外の景色に関しては「興味」という存在が関与するかなと思います。
こう書くと感性的なものを除外してしまっているようになっているので補足として
「彼らにとって車窓の景色は素晴らしい絵画に出会ったのと同じ衝撃をもたらしている」
という感じではないかなとも。
これに「未知なものを既知にしたい」という欲望が相まって視線が釘付けになるという方向です。

いつもの電車でいつも窓の外を見たがるという場合、それは既に「車窓の景色は楽しい」という知識があるので見ると言えます。
これは上記の経験も含めてどこまで派生するかで「いつもの電車の車窓」から「電車に乗れば外を見る」まで幅広く存在しますが、
叱られたり事故等の嫌な思い出、マイナス要因から車窓を見たがらない(更には怯える)子供もいるので最初に学んだ部分が大きいのではと。

そして解放感等からという可能性があります。
周囲の変化が自分に危害を加えない範囲であればむしろその変化を楽しめる事は多く、非日常的な空気をより味わうのに車窓は視覚に訴える分より効果的です。

最後に、本人にとってですが車窓が唯一動きがあるという状態です。
動きがなく退屈になる中動きがある、強く言えば唯一の娯楽として車窓の景色が存在する。
そんな存在としての車窓があると思います。

子供にとっては(そして俺のような一部の大人にとっても)乗り物の速度で移動する景色は通常ではない、非日常を演出する景色であり更には生命の危険を感じない(ないし忘れる)状況です。
なので窓の外の景色を見たがる。更には先頭車両で線路を見続けて運転している疑似体験をもという(これは本当に一部になってくるので深くは言わないでおきます)感じになっていくのではと思いました。

ハナー

なるほど以下4つですね。

1 未知を既知にする知識欲。
2 楽しいもの、美しいものを見たい好奇心。
3 非日常への解放感。
4 消去法としての選択。

大人と根底は同じですが、行動が真逆になっていく感じがしますね。
大人はなぜ窓の外を見ないのか?(へばりついて)
大人の場合、知識欲については「もう知ってるからいいや」となり
好奇心については「もうさほど楽しいものでもない」と失われており、
非日常への解放感や消去法の選択についても
「寝て現実に備える」とか「持ってるスマホや書籍をみる」に成り代わってしまっているようです。

大人はもう窓の外に「じぶんをワクワクさせる宝物」がないことを知ってしまっているというか諦観してしまっているのでしょうな。
単純に窓にへばりつくと子供っぽいという世間体もあるでしょうが。

友人A

大人の場合、真逆になっていく過程として刺激に対する慣れというのも大きいかもしれません。
似たような刺激をそれこそ小さい頃から味わい続けている為、同じ方向性の刺激には興味も湧かず消去法の選択肢にも上がらない。
昔からのゲーマーが出会った当時のゲームを現行のゲームよりも面白く感じる、美食に慣れた人が家庭の味を有難く感じる、
そういった傾向にも似た状態も一例として加えていいかなと思います。

そして慣れる事を知らない俺みたいなのは車窓から胸の高まりを未だ失えないというw
「オラァわくわくしてきただ!」

友人B

『楽天家は悲観主義を経験し、楽観論者に成る』ってのを思い出した。誰の言葉かは忘れたけれど、有名な人。
此処での楽天家と楽観論者は別物。物事の見極めや予測をしてるかしてないかの違いによる。
私も実は、楽天家と楽観論者は別物って思ってる。違いは、何も考えずに『大丈夫だ、問題無い』とするのが楽天家で、正しい考察をした上で『大丈夫だ、問題ない』と言うのが楽観論者。

ハナー

ふむ。根拠なき自信を持ってるのが楽天家。根拠ある自信を持ってるのが楽観論者というところですかね。ということは根拠なく不安を持ってるのが悲観家。根拠があって不安を持ってるのが悲観論者ということかしら? 「逆、必ずしも真ならず」ではありますが。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。