命を賭しても内容が正しいとは限らない

ボストン爆破事件の容疑者の1人死亡、もう1人は逃走中=警察当局

まず経緯はどうであれ、一連の事件による全ての被害者、犠牲者に哀悼の意を表します。人が傷つき、命を落とすのは悲しいことです。

●命を賭しても内容が正しいとは限らない
普通は「命がけで行う」ことといえば命を懸けるに足る重要なことであるはずですが。

「真剣で命がけだから」といってその内容が正しくなるなんてことはあり得なません。「命がけであること」と「内容の正しさ」とは全く別で独立しています。論理的なつながりはありません。

彼ら兄弟が命を賭してまでやろうとしたことはなんだったのか? 解明し、理解する必要があります。決して彼ら兄弟に共感、共鳴するのではありませんので誤解なきよう。ただ、彼らのような行為をする人間の動機や理由、背景を理解することで次の類例を防げる可能性が広がります。狂気に近づく一面もあるので精神的にタフでなければなりますまい。狂気を理解しようとする過程でその重力に囚われては困ります。一定のSANチェックが必要でしょう。

●目には目を歯には歯を
犯人射殺の批判もあります。何でもかんでも殺せばいいというわけではないし、事件の背景や動機を探れる方が理想ではあります。単に犯人を殺害するという「報復」「処理」が中心になってしまってはよくありません。この犯罪行為の責任を取らせるという意味はあります。ただ、次回以降の類例に対するプラスが得られません。とはいえ、この事件でいえば大量の武器で武装した犯罪者が暗躍する過程でより多くの被害が出た可能性は高いわけで、射殺もやむを得ない状況だったのでしょう。

他人に向けて引き金を引く者は、当然に自分にもそれをされる。野蛮とか原始的とか言う以前に、「目には目を歯には歯を」にはある種の公平性があります。他人を傷つけ攻撃するモノは、当然に相応の反撃を受けて然るべきです。「一方的に攻撃だけして終わり」というのは少なくとも公平ではないでしょう。

●多民族とか移民のデメリット
多種多様な多民族国家になればなるほどテロなどの過激な手段で訴えるものが出てくるのは自明。移民を受け入れた場合に考えうる大きなマイナスでしょう。日本民族以外を受け入れて、より増えるであろう「過激な主張」に対して移民賛成の方々はどうお考えなのでしょうね。よくよく考える必要があります。

●「全ての可能性を疑ってはいられない」
安易に決めつけ、流されるのも良くありませんが。この手の事件があると「アメリカの陰謀」をうたがう信者の方(笑)がいます。「彼らが犯人である明確な証拠はない」というのなら、「アメリカの陰謀であるという証拠もない」も同程度になるはずです。「彼らが犯人である証拠もアメリカのでっち上げだ」と言いながら、アメリカの陰謀であるという証拠についてはその証拠能力を疑わないという「不公平」があります。
「アメリカの陰謀」である可能性はゼロではありません。完全に排除できるものではないでしょう。ただ、何を持って客観中立公正と言うかは難しいです。

推理物などで「全ての可能性を疑う」=網羅性の実現を目指すことだ。内部監査でも当然にそれは理想であり、推奨されます。ですが、調査する側のリソース(コストや時間)は有限であり、事件の広がりに対して不足する場合は枝葉末節の可能性は優先順位的に切り捨ても発生するのが実情です。「微レ存」までいちいち疑っては居られないわけです。

●感情の影響から逃れ得ぬ宿命
証拠や理論ではなくて、結局自分が見たいものを見て、信じたいものを信じる。多くの人は自分自身のバイアスから脱し切れていません。と言うか意識すらしていないと思います。意識していてもなかなか脱することはできませんが、少なくとも是正はできます。

何かを安易に信用して突っ走る行為は危険ですが、疑い過ぎて何も決められないのも危険です。人はそれを優柔不断といいます。


●理実主義者
たとえば私は銃は「根絶」が理想的だとは思う。だが、実際問題への対処としては「管理統制」が現実的だと理解している。理想は理想で忘れないうえで現実に対応する。理想主義者+現実主義者=理実主義者であることが1つの形ではなかろうか。

●民主主義、数の力(暴力)
何が予断なのか? 何が優先順位的に切り捨ててよいのかは難しい問題だが、より多くの人が信じられることの優先順位を高いとせざるをえない。中世ヨーロッパにおける天動説を見ても多数派が常に正しいとは限らない。良い悪いではなく、そうやって動いていくのが人間社会の現実だ。少数派が自分の正当性を訴える場合は方法を考えなければ危険だ(当時は地動説を唱えれば異端扱いされたわけで)。

CIA(内部監査人)や行政書士資格から「ルールについて」、将棋の趣味から「格上との戦い方」に特化して思考を掘り下げている人間です。